さんのお追善《ついぜん》ですもの。ほら、放鳥《ほうちょう》って云うでしょう。あの放鳥をして上げるんだわ。文鳥だってきっと喜んでよ。――私には手がとどかないかしら? とどかなかったら、あなた取って頂戴《ちょうだい》。」
 槐《えんじゅ》の根もとに走り寄った敏子は、空気草履《くうきぞうり》を爪立《つまだ》てながら、出来るだけ腕を伸ばして見た。しかし籠を吊した枝には、容易に指さえとどこうとしない。文鳥は気でも違ったように、小さい翼《つばさ》をばたばたやる。その拍子《ひょうし》にまた餌壺《えつぼ》の黍《きび》も、鳥籠の外に散乱する。が、男は面白そうに、ただ敏子を眺めていた。反《そ》らせた喉《のど》、膨《ふくら》んだ胸、爪先《つまさき》に重みを支えた足、――そう云う妻の姿を眺めていた。
「取れないかしら?――取れないわ。」
 敏子は足を爪立《つまだ》てたまま、くるりと夫の方へ向いた。
「取って頂戴よ。よう。」
「取れるものか? 踏み台でもすれば格別だが、――何もまた放すにしても、今|直《すぐ》には限らないじゃないか?」
「だって今直に放したいんですもの、よう。取って頂戴よう。取って下さらなければいじめるわよ。よくって? ハムモックを解いてしまうわよ。――」
 敏子は男を睨《にら》むようにした。が、眼にも唇にも、漲《みなぎ》っているものは微笑である。しかもほとんど平静を失した、烈しい幸福の微笑である。男はこの時妻の微笑に、何か酷薄《こくはく》なものさえ感じた。日の光に煙った草木《くさき》の奥に、いつも人間を見守っている、気味の悪い力に似たものさえ。
「莫迦《ばか》な事をするなよ。――」
 男は葉巻を投げ捨てながら、冗談《じょうだん》のように妻を叱った。
「第一あの何とか云った、お隣の奥さんにもすまないじゃないか? あっちじゃ子供が死んだと云うのに、こっちじゃ笑ったり騒いだり、……」
 すると敏子はどうしたのか、突然蒼白い顔になった。その上|拗《す》ねた子供のように、睫毛《まつげ》の長い眼を伏せると、別に何と云う事もなしに、桃色の手紙を破り出した。男はちょいと苦《にが》い顔をした。が、気まずさを押しのけるためか、急にまた快活に話し続けた。
「だがまあ、こうしていられるのは、とにかく仕合せには違いないね。上海《シャンハイ》にいた時には弱ったからな。病院にいれば気ばかりあせるし、いな
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