ムモックの中に仰向《あおむ》けになった、夏のズボンに胴衣《チョッキ》しかつけない、小肥《こぶと》りの男にもふり撒いている。
男は葉巻に火をつけたまま、槐《えんじゅ》の枝に吊《つ》り下げた、支那風の鳥籠を眺めている。鳥は文鳥《ぶんちょう》か何からしい。これも明暗の斑点《はんてん》の中に、止《とま》り木《ぎ》をあちこち伝わっては、時々さも不思議そうに籠の下の男を眺めている。男はその度にほほ笑《え》みながら、葉巻を口へ運ぶ事もある。あるいはまた人と話すように、「こら」とか「どうした?」とか云う事もある。
あたりは庭木の戦《そよ》ぎの中に、かすかな草の香《か》を蒸《む》らせている。一度ずっと遠い空に汽船の笛《ふえ》の響いたぎり、今はもう人音《ひとおと》も何もしない。あの汽船はとうに去ったであろう。赤濁《あかにご》りに濁った長江《ちょうこう》の水に、眩《まばゆ》い水脈《みお》を引いたなり、西か東かへ去ったであろう。その水の見える波止場《はとば》には、裸も同様な乞食《こじき》が一人、西瓜《すいか》の皮を噛《か》じっている。そこにはまた仔豚《こぶた》の群《むれ》も、長々《ながなが》と横たわった親豚の腹に、乳房《ちぶさ》を争っているかも知れない、――小鳥を見るのにも飽《あ》きた男は、そんな空想に浸《ひた》ったなり、いつかうとうと眠りそうになった。
「あなた。」
男は大きい眼を明いた。ハムモックの側に立っているのは、上海《シャンハイ》の旅館にいた時より、やや血色の好《い》い敏子《としこ》である。髪にも、夏帯にも、中形《ちゅうがた》の湯帷子《ゆかた》にも、やはり明暗の斑点を浴びた、白粉《おしろい》をつけない敏子である。男は妻の顔を見たまま、無遠慮に大きい欠伸《あくび》をした。それからさも大儀《たいぎ》そうに、ハムモックの上へ体を起した。
「郵便よ、あなた。」
敏子は眼だけ笑いながら、何本か手紙を男へ渡した。と同時に湯帷子《ゆかた》の胸から、桃色の封筒《ふうとう》にはいっている、小さい手紙を抜いて見せた。
「今日は私にも来ているのよ。」
男はハムモックに腰かけたなり、もう短い葉巻を噛み噛み、無造作《むぞうさ》に手紙を読み始めた。敏子もそこへ佇《たたず》んだまま、封筒と同じ桃色の紙へ、じっと眼を落している。
雍家花園《ようかかえん》の槐《えんじゅ》や柳は、午過ぎの微風に戦《そよ
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