らなかった。ただ彼の知っているのは月々の給金《きゅうきん》を貰う時に、この人の手を経《へ》ると云うことだけだった。もう一人《ひとり》は全然知らなかった。二人《ふたり》は麦酒《ビイル》の代りをする度に、「こら」とか「おい」とか云う言葉を使った。女中はそれでも厭《いや》な顔をせずに、両手にコップを持ちながら、まめに階段を上《のぼ》り下《お》りした。その癖《くせ》保吉のテエブルへは紅茶を一杯《いっぱい》頼んでも容易に持って来てはくれなかった。これはここに限ったことではない。この町のカフェやレストランはどこへ行っても同じことだった。
 二人は麦酒を飲みながら、何か大声に話していた。保吉は勿論《もちろん》その話に耳を貸していた訣《わけ》ではなかった。が、ふと彼を驚かしたのは、「わんと云え」と云う言葉だった。彼は犬を好まなかった。犬を好まない文学者にゲエテとストリントベルグとを数えることを愉快《ゆかい》に思っている一人だった。だからこの言葉を耳にした時、彼はこんなところに飼《か》ってい勝ちな、大きい西洋犬《せいよういぬ》を想像した。同時にそれが彼の後《うし》ろにうろついていそうな無気味《ぶきみ》さ
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