ヨ這《は》い上った。が、勿論盗人の舟はその間《あいだ》にもう沖《おき》の闇へ姿を隠していたのである。
「大浦《おおうら》と云う守衛ですがね。莫迦莫迦《ばかばか》しい目に遇《あ》ったですよ。」
武官はパンを頬張《ほおば》ったなり、苦しそうに笑っていた。
大浦は保吉も知っていた。守衛は何人か交替《こうたい》に門側《もんがわ》の詰《つ》め所に控《ひか》えている。そうして武官と文官とを問わず、教官の出入《ではいり》を見る度に、挙手《きょしゅ》の礼をすることになっている。保吉は敬礼されるのも敬礼に答えるのも好まなかったから、敬礼する暇《ひま》を与えぬように、詰め所を通る時は特に足を早めることにした。が、この大浦と云う守衛だけは容易《ようい》に目つぶしを食わされない。第一詰め所に坐ったまま、門の内外《うちそと》五六間の距離へ絶えず目を注《そそ》いでいる。だから保吉の影が見えると、まだその前へ来ない内に、ちゃんともう敬礼の姿勢をしている。こうなれば宿命と思うほかはない。保吉はとうとう観念《かんねん》した。いや、観念したばかりではない。この頃は大浦を見つけるが早いか、響尾蛇《がらがらへび》に狙《ねら》われた兎《うさぎ》のように、こちらから帽《ぼう》さえとっていたのである。
それが今聞けば盗人《ぬすびと》のために、海へ投げこまれたと云うのである。保吉はちょいと同情しながら、やはり笑わずにはいられなかった。
すると五六日たってから、保吉は停車場《ていしゃば》の待合室に偶然大浦を発見した。大浦は彼の顔を見ると、そう云う場所にも関《かかわ》らず、ぴたりと姿勢を正した上、不相変《あいかわらず》厳格に挙手の礼をした。保吉ははっきり彼の後《うし》ろに詰め所の入口が見えるような気がした。
「君はこの間――」
しばらく沈黙が続いた後《のち》、保吉はこう話しかけた。
「ええ、泥坊《どろぼう》を掴《つか》まえ損じまして、――」
「ひどい目に遇《あ》ったですね。」
「幸い怪我《けが》はせずにすみましたが、――」
大浦は苦笑《くしょう》を浮べたまま、自《みずか》ら嘲《あざけ》るように話し続けた。
「何、無理《むり》にも掴《つか》まえようと思えば、一人《ひとり》ぐらいは掴まえられたのです。しかし掴まえて見たところが、それっきりの話ですし、――」
「それっきりと云うのは?」
「賞与も何も貰《もら》え
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