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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)京浜電車《けいひんでんしゃ》の中で

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)午後|京浜電車《けいひんでんしゃ》の中で

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(例)[#地から1字上げ](大正六年九月十七日)
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(一しょに大学を出た親しい友だちの一人に、ある夏の午後|京浜電車《けいひんでんしゃ》の中で遇《あ》ったら、こんな話を聞かせられた。)
 この間、社の用でYへ行った時の話だ。向うで宴会を開いて、僕を招待《しょうだい》してくれた事がある。何しろYの事だから、床の間には石版摺《せきばんず》りの乃木《のぎ》大将の掛物がかかっていて、その前に造花《ぞうか》の牡丹《ぼたん》が生けてあると云う体裁だがね。夕方から雨がふったのと、人数《にんず》も割に少かったのとで、思ったよりや感じがよかった。その上二階にも一組宴会があるらしかったが、これも幸いと土地がらに似ず騒がない。所が君、お酌人《しゃくにん》の中に――
 君も知っているだろう。僕らが昔よく飲みに行ったUの女中に、お徳《とく》って女がいた。鼻の低い、額のつまった、あすこ中《じゅう》での茶目だった奴さ。あいつが君、はいっているんだ。お座敷着で、お銚子を持って、ほかの朋輩《ほうばい》なみに乙につんとすましてさ。始《はじめ》は僕も人ちがいかと思ったが、側《そば》へ来たのを見ると、お徳にちがいない。もの云う度に、顋《あご》をしゃくる癖も、昔の通りだ。――僕は実際無常を感じてしまったね。あれでも君、元は志村《しむら》の岡惚《おかぼ》れだったんじゃないか。
 志村の大将、その時分は大真面目《おおまじめ》で、青木堂へ行っちゃペパミントの小さな罎《びん》を買って来て、「甘いから飲んでごらん。」などと、やったものさ。酒も甘かったろうが、志村も甘かったよ。
 そのお徳が、今じゃこんな所で商売をしているんだ。シカゴにいる志村が聞いたら、どんな心もちがするだろう。そう思って、声をかけようとしたが、遠慮した。――お徳の事だ。前には日本橋に居りましたくらいな事は、云っていないものじゃない。
 すると、向うから声をかけた。「ずいぶんしばらくだわねえ。私《わたし》がUにいる時分にお眼にかかった切りなんだから。あなたはちっともお変りにならない。」なんて云う。――お徳の奴め、もう来た時から酔っていたんだ。
 が、いくら酔っていても、久しぶりじゃあるし、志村の一件があるもんだから、大《おおい》に話がもてたろう。すると君、ほかの連中が気を廻わすのを義理だと心得た顔色で、わいわい騒ぎ立てたんだ。何しろ主人役が音頭《おんどう》をとって、逐一白状に及ばない中は、席を立たせないと云うんだから、始末が悪い。そこで、僕は志村のペパミントの話をして、「これは私の親友に臂《ひじ》を食わせた女です。」――莫迦莫迦《ばかばか》しいが、そう云った。主人役がもう年配でね。僕は始から、叔父さんにつれられて、お茶屋へ上ったと云う格だったんだ。
 すると、その臂と云うんで、またどっと来たじゃないか。ほかの芸者まで一しょになって、お徳のやつをひやかしたんだ。
 ところが、お徳こと福竜のやつが、承知しない。――福竜がよかったろう。八犬伝の竜の講釈の中に、「優楽自在なるを福竜と名づけたり」と云う所がある。それがこの福竜は、大に優楽不自在なんだから可笑《おか》しい。もっともこれは余計な話だがね。――その承知しない云い草が、また大に論理的《ロジカル》なんだ。「志村さんが私にお惚れになったって、私の方でも惚れなければならないと云う義務はござんすまい。」さ。
 それから、まだあるんだ。「それがそうでなかったら、私だって、とうの昔にもっと好い月日があったんです。」
 それが、所謂片恋の悲しみなんだそうだ。そうしてその揚句に例《エキザンプル》でも挙げる気だったんだろう。お徳のやつめ、妙なのろけを始めたんだ。君に聞いて貰おうと思うのはそののろけ話さ。どうせのろけだから、面白い事はない。
 あれは不思議だね。夢の話と色恋の話くらい、聞いていてつまらないものはない。
(そこで自分は、「それは当人以外に、面白さが通じないからだよ。」と云った。「じゃ小説に書くのにも、夢と色恋とはむずかしい訳だね。」「少くとも夢なんぞは感覚的なだけに、なおそうらしいね。小説の中に出て来る夢で、ほんとうの夢らしいのはほとんど一つもないくらいだ。」「だが、恋愛小説の傑作は沢山あるじゃないか。」「それだけまた、後世《こうせい》にのこらなかった愚作の数も、思いやられると云うものさ。」)
 そう話がわかっていれば、大に心づよい。どうせこれもその愚作中の愚作だよ。何《なん》しろお徳の口吻《こうふん》を真似ると、「ま
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