出せり。いかなるものぞと開き見れば、江戸の筆工の家号をしるしたる名紙といふものを一枚の遺漏もなく集めたりしとぞ」(山崎美成《やまざきびせい》)と云ふ程度の逸話ばかりである。尤もこの逸話にしても、「その好事の勝れたる想像すべし」と云ふより外に考へられない次第ではない。巽斎は明らかに鳳池堂の主人へ無言の一拶を与へてゐる。更に無造作に言ひ換へれば、アルバムに満載した筆屋の名刺を「どうだ?」とばかりに突きつけてゐる。その辺は勿論辛辣なる機鋒を露はしてゐるのに違ひない。しかし柳里恭に比べれば、――殊に「独寝」の作者たる柳里恭に比べれば、はるかに温乎《をんこ》たる長者の風を示してゐることは確かである。
「余幼年より絶えて知らざること、古楽、管絃、猿楽、俗謡、碁棋《ごき》、諸勝負、妓館、声色の遊、総《すべ》て其の趣を得ず。況や少年より好事多端《かうずたたん》暇なき故なり。勝負を好まざるは余|頤養《いやう》の意あればなり。」
 巽斎の所謂娯楽なるものに少しも興味のなかつたことはこの一節の示す通りである。
「余が嗜好の事専ら奇書にあり。名物多識の学、其他書画碑帖の事、余微力と雖も数年来百費を省き収る所書
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