葉なんです。」
中尉の出した紙切れには何か横文字の言葉が一つ、青鉛筆の痕《あと》を残している。Masochism ――保吉は思わず紙切れから、いつも頬《ほお》に赤みのさした中尉の童顔へ目を移した。
「これですか? このマソヒズムと云う……」
「ええ、どうも普通の英和辞書には出て居らんように思いますが。」
保吉は浮かない顔をしたまま、マソヒズムの意味を説明した。
「いやあ、そう云うことですか!」
田中中尉は不相変《あいかわらず》晴ればれした微笑《びしょう》を浮かべている。こう云う自足《じそく》した微笑くらい、苛立《いらだ》たしい気もちを煽《あお》るものはない。殊に現在の保吉は実際この幸福な中尉の顔へクラフト・エビングの全|語彙《ごい》を叩きつけてやりたい誘惑さえ感じた。
「この言葉の起源になった、――ええと、マゾフと云いましたな。その人の小説は巧《うま》いんですか?」
「まあ、ことごとく愚作ですね。」
「しかしマゾフと云う人はとにかく興味のある人格なんですな?」
「マゾフですか? マゾフと云うやつは莫迦《ばか》ですよ。何しろ政府は国防計画よりも私娼保護《ししょうほご》に金を出せと熱心に主張したそうですからね。」
マゾフの愚を知った田中中尉はやっと保吉を解放した。もっともマゾフは国防計画よりも私娼保護を重んじたかどうか、その辺は甚だはっきりしない。多分はやはり国防計画にも相当の敬意を払っていたであろう。しかしそれをそう云わなければ、この楽天家の中尉の頭に変態性慾《へんたいせいよく》の莫迦莫迦《ばかばか》しい所以《ゆえん》を刻《きざ》みつけてしまうことは不可能だからである。……
保吉は一人になった後《のち》、もう一本バットに火をつけながら、ぶらぶら室内を歩みはじめた。彼の英吉利《イギリス》語を教えていることは前にも書いた通りである。が、それは本職ではない。少くとも本職とは信じていない。彼はとにかく創作を一生の事業と思っている。現に教師になってからも、たいてい二月《ふたつき》に一篇ずつは短い小説を発表して来た。その一つ、――サン・クリストフの伝説を慶長版《けいちょうばん》の伊曾保物語《いそぽものがたり》風にちょうど半分ばかり書き直したものは今月のある雑誌に載せられている。来月はまた同じ雑誌に残りの半分を書かなければならぬ。今月ももう七日《なぬか》とすると、来月号の締切り日は――弔辞《ちょうじ》などを書いている場合ではない。昼夜兼行に勉強しても、元来仕事に手間《てま》のかかる彼には出来上るかどうか疑問である。保吉はいよいよ弔辞に対する忌《いま》いましさを感じ出した。
この時大きい柱時計の静かに十二時半を報じたのは云わばニュウトンの足もとへ林檎《りんご》の落ちたのも同じことである。保吉の授業の始まるまではもう三十分待たなければならぬ。その間《あいだ》に弔辞を書いてしまえば、何も苦しい仕事の合い間に「悲しいかな」を考えずとも好《い》い。もっともたった三十分の間に資性《しせい》穎悟《えいご》にして兄弟《けいてい》に友《ゆう》なる本多少佐を追悼《ついとう》するのは多少の困難を伴っている。が、そんな困難に辟易《へきえき》するようでは、上は柿本人麻呂《かきのもとひとまろ》から下《しも》は武者小路実篤《むしゃのこうじさねあつ》に至る語彙《ごい》の豊富を誇っていたのもことごとく空威張《からいば》りになってしまう。保吉はたちまち机に向うと、インク壺へペンを突《つっ》こむが早いか、試験用紙のフウルス・カップへ一気に弔辞を書きはじめた。
× × ×
本多少佐の葬式の日は少しも懸《か》け価《ね》のない秋日和《あきびより》だった。保吉はフロック・コオトにシルク・ハットをかぶり、十二三人の文官教官と葬列のあとについて行った。その中《うち》にふと振り返ると、校長の佐佐木《ささき》中将を始め、武官では藤田大佐だの、文官では粟野《あわの》教官だのは彼よりも後《うし》ろに歩いている。彼は大いに恐縮したから、直《すぐ》後ろにいた藤田大佐へ「どうかお先へ」と会釈《えしゃく》をした。が、大佐は「いや」と云ったぎり、妙ににやにや笑っている。すると校長と話していた、口髭《くちひげ》の短い粟野教官はやはり微笑を浮かべながら、常談《じょうだん》とも真面目《まじめ》ともつかないようにこう保吉へ注意をした。
「堀川君。海軍の礼式じゃね、高位高官のものほどあとに下《さが》るんだから、君はとうてい藤田さんの後塵《こうじん》などは拝せないですよ。」
保吉はもう一度恐縮した。なるほどそう云われて見れば、あの愛敬《あいきょう》のある田中中尉などはずっと前の列に加わっている。保吉は※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]々《そうそ
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