そのまた棺の前の机には造花の蓮《はす》の花の仄《ほの》めいたり、蝋燭《ろうそく》の炎《ほのお》の靡《なび》いたりする中に勲章の箱なども飾ってある。校長は棺に一礼した後《のち》、左の手に携《たずさ》えていた大奉書《おおぼうしょ》の弔辞《ちょうじ》を繰りひろげた。弔辞は勿論二三日|前《まえ》に保吉の書いた「名文」である。「名文」は格別恥ずる所はない。そんな神経はとうの昔、古い革砥《かわと》のように擦《す》り減らされている。ただこの葬式の喜劇の中に彼自身も弔辞の作者と云う一役《ひとやく》を振られていることは、――と云うよりもむしろそう云う事実をあからさまに見せつけられることはとにかく余り愉快ではない。保吉は校長の咳払《せきばら》いと同時に、思わず膝の上へ目を伏せてしまった。
 校長は静かに読みはじめた。声はやや錆《さ》びを帯びた底にほとんど筆舌を超越《ちょうえつ》した哀切の情をこもらせている。とうてい他人の作った弔辞を読み上げているなどとは思われない。保吉はひそかに校長の俳優的才能に敬服した。本堂はもとよりひっそりしている。身動きさえ滅多《めった》にするものはない。校長はいよいよ沈痛に「君、資性《しせい》穎悟《えいご》兄弟《けいてい》に友《ゆう》に」と読みつづけた。すると突然親族席に誰かくすくす笑い出したものがある。のみならずその笑い声はだんだん声高《こわだか》になって来るらしい。保吉は内心ぎょっとしながら、藤田大佐の肩越しに向う側の人々を物色《ぶっしょく》した。と同時に場所|柄《がら》を失した笑い声だと思ったものは泣き声だったことを発見した。
 声の主《ぬし》は妹である。旧式の束髪《そくはつ》を俯向《うつむ》けたかげに絹の手巾《はんけち》を顔に当てた器量好《きりょうよ》しの娘さんである。そればかりではない、弟も――武骨《ぶこつ》そうに見えた大学生もやはり涙をすすり上げている。と思うと老人もしっきりなしに鼻紙を出してはしめやかに鼻をかみつづけている。保吉はこう云う光景の前にまず何よりも驚きを感じた。それからまんまと看客《かんかく》を泣かせた悲劇の作者の満足を感じた。しかし最後に感じたものはそれらの感情よりも遥かに大きい、何とも云われぬ気の毒さである。尊《たっと》い人間の心の奥へ知らず識《し》らず泥足《どろあし》を踏み入れた、あやまるにもあやまれない気の毒さである。保吉はこの気の毒さの前に、一時間に亘《わた》る葬式中、始めて悄然《しょうぜん》と頭を下げた。本多少佐の親族諸君はこう云う英吉利《イギリス》語の教師などの存在も知らなかったのに違いない。しかし保吉の心の中には道化《どうけ》の服を着たラスコルニコフが一人、七八年たった今日《こんにち》もぬかるみの往来へ跪《ひざまず》いたまま、平《ひら》に諸君の高免《こうめん》を請いたいと思っているのである。………

 葬式のあった日の暮れがたである。汽車を降りた保吉は海岸の下宿へ帰るため、篠垣《しのがき》ばかり連《つらな》った避暑地の裏通りを通りかかった。狭い往来は靴《くつ》の底にしっとりと砂をしめらせている。靄《もや》ももういつか下《お》り出したらしい。垣の中に簇《むらが》った松は疎《まば》らに空を透かせながら、かすかに脂《やに》の香《か》を放っている。保吉は頭を垂れたまま、そう云う静かさにも頓着《とんじゃく》せず、ぶらぶら海の方へ歩いて行った。
 彼は寺から帰る途中、藤田大佐と一しょになった。すると大佐は彼の作った弔辞の出来栄えを賞讃した上、「急焉《きゅうえん》玉砕《ぎょくさい》す」と云う言葉はいかにも本多少佐の死にふさわしいなどと云う批評を下《くだ》した。それだけでも親族の涙を見た保吉を弱らせるには十分である。そこへまた同じ汽車に乗った愛敬者《あいきょうもの》の田中中尉は保吉の小説を批評している読売新聞の月評を示した。月評を書いたのはまだその頃文名を馳せていたN氏である。N氏はさんざん罵倒《ばとう》した後《のち》、こう保吉に止《とど》めを刺していた。――「海軍××学校教官の余技は全然文壇には不必要である」!
 半時間もかからずに書いた弔辞は意外の感銘を与えている。が、幾晩も電燈の光りに推敲《すいこう》を重ねた小説はひそかに予期した感銘の十分の一も与えていない。勿論彼はN氏の言葉を一笑に付する余裕《よゆう》を持っている。しかし現在の彼自身の位置は容易に一笑《いっしょう》に付することは出来ない。彼は弔辞には成功し、小説には見事に失敗した。これは彼自身の身になって見れば、心細い気のすることは事実である。一体運命は彼のためにいつこう云う悲しい喜劇の幕を下《おろ》してくれるであろう?………
 保吉はふと空を見上げた。空には枝を張った松の中に全然光りのない月が一つ、赤銅色《しゃくどういろ》にはっきりか
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