」といふ言葉を聞いた時、大抵《たいてい》髪をみづらに結《ゆ》ひ、首のまはりに勾玉《まがたま》をかけた男女の姿を感じたものである。しかし今日《こんにち》の日本人は――少くとも今日の青年は大抵《たいてい》長ながと顋髯《あごひげ》をのばした西洋人を感じてゐるらしい。言葉は同じ「神」である。が、心に浮かぶ姿はこの位すでに変遷《へんせん》してゐる。
  なほ見たし花に明《あ》け行《ゆ》く神の顔(葛城山《かつらぎさん》)
 僕はいつか小宮《こみや》さんとかういふ芭蕉《ばせを》の句を論じあつた。子規居士《しきこじ》の考へる所によれば、この句は諧謔《かいぎやく》を弄《ろう》したものである。僕もその説に異存はない。しかし小宮さんはどうしても荘厳な句だと主張してゐた。画力は五百年、書力は八百年に尽きるさうである。文章の力の尽きるのは何百年位かかるものであらう?



底本:「筑摩全集類聚 芥川龍之介全集第四巻」筑摩書房
   1971(昭和46)年6月5日初版第1刷発行
   1979(昭和54)年4月10日初版第11刷発行
入力:土屋隆
校正:松永正敏
2007年6月26日作成
青空文庫作成ファイル:

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