文章と言葉と
芥川龍之介
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)凝《こ》りすぎる
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)五十年|前《ぜん》の
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文章
僕に「文章に凝《こ》りすぎる。さう凝《こ》るな」といふ友だちがある。僕は別段必要以上に文章に凝つた覚えはない。文章は何よりもはつきり書きたい。頭の中にあるものをはつきり文章に現したい。僕は只《ただ》それだけを心がけてゐる。それだけでもペンを持つて見ると、滅多《めつた》にすらすら行つたことはない。必ずごたごたした文章を書いてゐる。僕の文章上の苦心といふのは(もし苦心といひ得るとすれば)そこをはつきりさせるだけである。他人の文章に対する注文も僕自身に対するのと同じことである。はつきりしない文章にはどうしても感心することは出来ない。少くとも好きになることは出来ない。つまり僕は文章上のアポロ主義を奉ずるものである。
僕は誰に何《なん》といはれても、方解石《はうかいせき》のやうにはつきりした、曖昧《あいまい》を許さぬ文章を書きたい。
言葉
五十年|前《ぜん》の日本人は「神」といふ言葉を聞いた時、大抵《たいてい》髪をみづらに結《ゆ》ひ、首のまはりに勾玉《まがたま》をかけた男女の姿を感じたものである。しかし今日《こんにち》の日本人は――少くとも今日の青年は大抵《たいてい》長ながと顋髯《あごひげ》をのばした西洋人を感じてゐるらしい。言葉は同じ「神」である。が、心に浮かぶ姿はこの位すでに変遷《へんせん》してゐる。
なほ見たし花に明《あ》け行《ゆ》く神の顔(葛城山《かつらぎさん》)
僕はいつか小宮《こみや》さんとかういふ芭蕉《ばせを》の句を論じあつた。子規居士《しきこじ》の考へる所によれば、この句は諧謔《かいぎやく》を弄《ろう》したものである。僕もその説に異存はない。しかし小宮さんはどうしても荘厳な句だと主張してゐた。画力は五百年、書力は八百年に尽きるさうである。文章の力の尽きるのは何百年位かかるものであらう?
底本:「筑摩全集類聚 芥川龍之介全集第四巻」筑摩書房
1971(昭和46)年6月5日初版第1刷発行
1979(昭和54)年4月10日初版第11刷発行
入力:土屋隆
校正:松永正敏
2007年6月26日作成
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