の呼び声」には目をつぶりたいと思つてゐる。しかし目をつぶることは必しも僕の自由にはならない。僕はつい四五日前の夜に室生犀星氏や何かと一しよに久しぶりにパイプを啣《くは》へながら、若い人たちと話してゐる中に十年余りも忘れてゐたボオドレエルの一行を思ひ出した。(それは僕には実験心理的にも興味のある事実だつたのに違ひない。)それから不可思議な荘厳に満ちた一枚のルドンを思ひ出した。
 この「西洋の呼び声」もやはり「野性の呼び声」のやうに僕をどこかへつれて行かうとしてゐる。アポロに対するデイオニソスに彼の偶像を発見した「ツアラトストラ」の詩人は幸福だつた。現世の日本に生まれ合せた僕は文芸的にも僕自身の中に無数の分裂を感ぜざるを得ない。それも或は僕一人に、――何ごとにも影響を受け易い僕一人に限つてゐることであらうか? 僕はこの不可思議なギリシアこそ最も西洋的な文芸上の作品を僕等の日本語に飜訳することを遮《さまた》げてゐるのではないかと思つてゐる。或は僕等日本人の正確に理解することさへ(語学上の障害は暫らく問はず)遮げてゐるのではないかと思つてゐる。一枚のルドンは、――いや、いつかフランス美術展覧会に出てゐたモロオの「サロメ」(?)さへかう云ふ点では僕に東西を切り離した大海を想はせずには措《お》かなかつた。この問題を逆にすれば、紅毛人の漢詩を理解しないのも当然であると言はなければならぬ。僕は大英博物館に一人の東洋学者のゐることを聞き噛《かじ》つてゐる。しかし彼の漢詩の英訳は少くとも僕等日本人には原作の醍醐味《だいごみ》を伝へてゐない。のみならず彼の漢詩論も盛唐を貶《おと》して漢魏《かんぎ》を揚《あ》げたのは前人の説を破つてゐるにもせよ、やはり僕等日本人には容易に首肯することは出来ないのである。ピカソは黒んぼの芸術に新らしい美しさを発見した。けれども彼等の東洋的芸術に――たとへば大愚良寛の書に新らしい美しさを発見するのはいつであらう。

     三十二 批評時代

 批評や随筆の流行は即ち創作の振はない半面を示したものである。――これは僕の議論ではない。佐藤春夫氏の議論である。(「中央公論」五月号所載)同時に又三宅|幾三郎《いくさぶらう》氏の議論である。(「文芸時代」五月号所載)僕は偶然|軌《き》を一にした両氏の議論に興味を感じた。両氏の議論は中《あた》つてゐるであらう。今日の作家たちは佐藤氏の言ふやうに疲れてゐるのに違ひない。(尤も「僕は疲れてゐない」と主張する作家は例外である。)或は休みない制作の為に、(世界に日本の文壇ほど濫作《らんさく》を強ひる所はない。)或は又身辺の雑事の為に、或は又争ひ難い年齢の為に、或は又、――事情はいろいろ変つてゐるにしても、兎に角多少は疲れてゐるであらう。現に紅毛の作家たちの中にも晩年には批評のペンを執つて閑を潰《つぶ》したものも少くはなかつた。……
 佐藤氏はこの批評時代に一層根本的なものに触れることを必要であると力説してゐる。三宅氏の「第一義的の批評」を要求するのも恐らくは佐藤氏と大差ないであらう。僕も亦各人の批評のペンにも血の滴《したた》ることを望んでゐる。何を批評上では第一義的とするか?――それは各人各説かも知れない。その又各人各説であることに所謂「真の批評」の出現する事実上の困難はあるのかも知れない。しかし僕等は各人各説でも兎に角僕等の信条や疑問を叩きつける外はないのである。現に正宗白鳥氏は「文芸評論」や「ダンテに就いて」の中に立派にかう云ふ仕事をした。正宗氏の議論は批評的に多少の欠点を数へ得るかも知れない。しかし後代の人々はいつかラツサアレも言つたやうに、「我々の過失を咎《とが》めるよりも我々の情熱を諒《りやう》とするであらう。」
 三宅氏は又「批評をも全々(原)小説家の手に委《ゆだ》ねておく事は、寧ろ文学の進歩発展を渋滞《じふたい》させる恐れがある」と言つてゐる。僕はこの言葉を読んだ時、「詩人は彼自身の中に批評家を持つてゐる。が、批評家は彼自身の中に詩人を持つてゐるとは限らない」と云ふボオドレエルの言葉だつた。実際詩人は彼自身の中に批評家を持つてゐるのに違ひない。が、その批評家は彼の批評を「批評」と云ふ文芸上の或形式に完成する力をもつてゐるかどうか?――それは又おのづから別問題である。三宅氏の所謂「真の批評家」の出現することを望むものは必しも僕ばかりに限らないであらう。
 唯日本のパルナスは或|因襲《いんしふ》に捉《とら》はれてゐる。たとへば詩人室生犀星氏の小説や戯曲を作る時にはそれ等は決して余技ではない。しかし小説家佐藤春夫氏の時々詩を作る時にはそれは不思議にも余技である。(僕はいつか佐藤氏自身の「僕の詩は決して余技ではない」と憤慨してゐたのを覚えてゐる。)若し「小説家万能」の言葉に相当する事実を数へるとすれば、これこそ正にその一つであらう。小説家兼批評家の場合もやはりこの事実と同じことである。僕は「鴎外全集」第三巻を読み、批評家鴎外先生の当時の「専門的批評家」を如何に凌駕《りようが》してゐるかを知つた。同時に又かう云ふ批評家のない時代の如何に寂しいものであるかを知つた。若し明治時代の批評家を数へるとすれば、僕は森先生や夏目先生と一しよに子規|居士《こじ》を数へたいと思つてゐる。東京の悪戯《いたづら》つ児《こ》斎藤|緑雨《りよくう》は右に森先生の西洋の学を借り、左に幸田先生の和漢の学を借りたものの、畢《つひ》に批評家の域にはいつてゐない。(しかし僕は随筆以外に何も完成しなかつた斎藤緑雨にいつも同情を感じてゐる。緑雨は少くとも文章家だつた。)けれどもそれは余論である。……
 批評家だつた森先生は自然主義の文芸の興つた明治時代の準備をした。(しかも逆説的な運命は自然主義の文芸の興つた時代には森先生を反自然主義者の一人にした。それは或は森先生の目はもつと遠い空を見てゐたからかも知れない。しかし兎に角明治二十年代にゾラやモオパスサンを云々した森先生さへ反自然主義者の一人になつたのは逆説的であると言はなければならぬ。)僕は若し当代も批評時代と呼ばれるとすれば、――三宅氏は「我々は来る可き日本文学の隆盛期に対して、殆ど絶望を感じないか」と言つてゐる。若し仕合せにもこの言葉は三宅氏一人の感慨だつたとすれば、――僕等はどの位安んじて新来の作家たちを待てるであらう。或は又どの位不安になつて新来の作家たちを待てるであらう。
 所謂「真の批評家」は籾《もみ》を米から分つ為に批評のペンを執るであらう。僕も亦時々僕自身の中にかう云ふメシア的欲望を感じてゐる。しかし大抵は僕自身の為に――僕自身を理智的に歌ひ上げる為に書いてゐるのに過ぎない。批評も亦僕にはその点では殆ど小説を作つたり発句《ほつく》を作つたりするのと変らないのである。僕は佐藤、三宅両氏の議論を読み、僕の批評に序文をつける為にとりあへずこの文章を艸《さう》することにした。
 追記。僕はこの文章を書き終つた後、堀木|克三《よしざう》氏の啓発を受け、宇野浩二氏の批評の名に「文芸的な、余りに文芸的な」を使つてゐることを知つた。僕は故意に宇野氏の真似をしたのでもなければ、なほ更プロレタリア文芸に対する共同戦線などにするつもりではない。唯文芸上の問題ばかりを論ずる為に漫然とつけたばかりである。宇野氏も恐らくは僕の心もちを諒《りやう》としてくれることであらう。

     三十三 「新感覚派」

「新感覚派」の是非を論ずることは今は既に時代遅れかも知れない。が、僕は「新感覚派」の作家たちの作品を読み、その又作家たちの作品に対する批評家たちの批評を読み、何か書いて見たい欲望を感じた。
 少くとも詩歌は如何なる時代にも「新感覚派」の為に進歩してゐる。「芭蕉は元禄時代の最大の新人だつた」と云ふ室生犀星氏の断案は中《あた》つてゐるのに違ひない。芭蕉はいつも文芸的にはいやが上にも新人にならうと努力をしてゐた。小説や戯曲もそれ等の中に詩歌的要素を持つてゐる以上、――広い意味の詩歌である以上、いつも「新感覚派」を待たなければならぬ。僕は北原白秋氏の如何に「新感覚派」だつたかを覚えてゐる。(「官能の解放」と云ふ言葉は当時の詩人たちの標語だつた。)同時に又谷崎潤一郎氏の如何に「新感覚派」だつたかを覚えてゐる。……
 僕は今日の「新感覚派」の作家たちにも勿論興味を感じてゐる。「新感覚派」の作家たちは、――少くともその中の論客たちは僕の「新感覚派」に対する考へなどよりも新らしい理論を発表した。が、それは不幸にも十分に僕にはわからなかつた。唯「新感覚派」の作家たちの作品だけは、――それも僕にはわからないのかも知れない。僕等は作品を発表し出した頃、「新理智派」とか云ふ名を貰つた。(尤も僕等の僕等自身この名を使はなかつたのは確かである。)しかし「新感覚派」の作家たちの作品を見れば、僕等の作品よりも或意味では「新理智派」に近いと言はなければならぬ。では或意味とは何かと言へば、彼等の所謂感覚の理智の光を帯びてゐることである。僕は室生犀星氏と一しよに碓氷《うすひ》山上の月を見た時、突然室生氏の妙義山を「生姜《しやうが》のやうだね」と云つたのを聞き、如何にも妙義山は一塊の根生姜にそつくりであることを発見した。この所謂《いはゆる》感覚は理智の光を帯びてはゐない。が、彼等の所謂感覚は、――たとへば横光利一氏は僕の為に藤沢|桓夫《たけを》氏の「馬は褐色の思想のやうに走つて行つた」(?)と云ふ言葉を引き、そこに彼等の所謂感覚の飛躍のあることを説明した。かう云ふ飛躍は僕にも亦全然わからない訣《わけ》ではない。が、この一行は明らかに理智的な聯想の上に成り立つてゐる。彼等は彼等の所謂感覚の上にも理智の光を加へずには措かなかつた。彼等の近代的特色は或はそこにあるのであらう。けれども若し所謂感覚のそれ自身新しいことを目標とすれば、僕はやはり妙義山に一塊の根生姜を感じるのをより新しい[#「より新しい」に傍点]としなければならぬ。恐らくは江戸の昔からあつた一塊の根生姜を感じるのを。
「新感覚派」は勿論起らなければならぬ。それも亦あらゆる新事業のやうに(文芸上の)決して容易に出来るものではない。僕は「新感覚派」の作家たちの作品に、――と云ふよりも彼等の所謂「新感覚」に必しも敬服し難いことは前に書いた通りである。が、彼等の作品に対する批評家たちの批評も亦恐らくは苛酷に失してゐるであらう。「新感覚派」の作家たちは少くとも新らしい方向へ彼等の歩みを運んでゐる。それだけは何びとも認めなければならぬ。この努力を一笑してしまふのは単に今日「新感覚派」と呼ばれる作家たちに打撃を与へるばかりではない。彼等の今後の成長の上にも、引いては彼等の後に来る「新感覚派」の作家たちのしつかりと目標を定める上にもやはり打撃を与へるであらう。それは勿論日本の文芸を伸び伸びと進歩させる所以ではあるまい。
 しかし何と呼ばれるにもせよ、所謂「新感覚」を持つた作家たちは必ず今後も現れるであらう。僕はもう十年あまり前、確か久米正雄氏と一しよに「草土社《さうどしや》」の展覧会を見物した後、久米氏の「この庭の檜《ひ》の木《き》を見ても、『草土社』的に見えるのは不思議だよ」と感心してゐたことを覚えてゐる。「草土社」的に見えるのは正に十年あまり以前の所謂「新感覚」の為に外ならなかつた。かう云ふ所謂「新感覚」を明日の作家たちに期待するのは必しも僕の早計ばかりではあるまい。
 若し真に文芸的に「新しいもの」を求めるとすれば、それは或はこの所謂「新感覚」の外にないかも知れない。(新しいことなどは何でもないと云ふ議論は勿論この問題の埒外《らちぐわい》にある訣である。)所謂「目的意識」を持つた文芸さへ「目的意識」そのものの新旧を暫く問はないとすれば、(たとひ新旧を問つたとしても、バアナアド・シヨウの現れたのは千八百九十年代である。)実は大勢の前人の歩いて行つた道である。況《いはん》や僕等の人生観は、――恐らくは「いろは骨牌《がるた》」の中に悉《ことごと》く数へ上げられ
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