はない。唯文芸上の問題ばかりを論ずる為に漫然とつけたばかりである。宇野氏も恐らくは僕の心もちを諒《りやう》としてくれることであらう。

     三十三 「新感覚派」

「新感覚派」の是非を論ずることは今は既に時代遅れかも知れない。が、僕は「新感覚派」の作家たちの作品を読み、その又作家たちの作品に対する批評家たちの批評を読み、何か書いて見たい欲望を感じた。
 少くとも詩歌は如何なる時代にも「新感覚派」の為に進歩してゐる。「芭蕉は元禄時代の最大の新人だつた」と云ふ室生犀星氏の断案は中《あた》つてゐるのに違ひない。芭蕉はいつも文芸的にはいやが上にも新人にならうと努力をしてゐた。小説や戯曲もそれ等の中に詩歌的要素を持つてゐる以上、――広い意味の詩歌である以上、いつも「新感覚派」を待たなければならぬ。僕は北原白秋氏の如何に「新感覚派」だつたかを覚えてゐる。(「官能の解放」と云ふ言葉は当時の詩人たちの標語だつた。)同時に又谷崎潤一郎氏の如何に「新感覚派」だつたかを覚えてゐる。……
 僕は今日の「新感覚派」の作家たちにも勿論興味を感じてゐる。「新感覚派」の作家たちは、――少くともその中の論客たちは
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