いた詩文――たとへば凡兆《ぼんてう》の「木の股のあでやかなりし柳かな」に対するほど、一字一音の末に到るまで舌舐《したな》めずりをすることは出来ないのである。西洋の僕に呼びかけるのに造形美術を通してゐるのは必しも偶然ではないかも知れない。
この「西洋」の底に根を張つてゐるものはいつも不可思議なギリシアである。水の冷暖は古人も言つたやうに飲んで自知する外に仕かたはない。不可思議なギリシアも亦同じことである。僕は最も手短かにギリシアを説明するとすれば、日本にもあるギリシア陶器の幾つかを見ることを勧めるであらう。或は又ギリシア彫刻の写真を見ることを勧めるであらう。それ等の作品の美しさはギリシアの神々の美しさである。或は飽くまでも官能的な、――言はば肉感的な美しさの中に何か超自然と言ふ外はない魅力を含んだ美しさである。この石に滲《し》みこんだ麝香《じやかう》か何かの匂のやうに得体《えたい》の知れない美しさは詩の中にもやはりないことはない。僕はポオル・ヴアレリを読んだ時、(紅毛の批評家は何と言ふか知れない。)ボオドレエルの昔からいつも僕を動かしてゐたかう云ふ美しさに邂逅《かいこう》した。しかし最
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