ころにある」と言ふ谷崎氏の言葉は中《あた》つてゐる。これは僕にも異存はない。しかし雑駁《ざつぱく》である大詩人はあつても、純粋でない大詩人はない。従つて大詩人を大詩人たらしめるものは、――少くとも後代に大詩人の名を与へしめるものは雑駁であることに帰着してゐる。谷崎氏は「雑駁な」と云ふ言葉を下品に感じてゐるのであらう。それは僕等の趣味の相違である。僕はゲエテに「雑駁な」と云ふ言葉を与へた。しかしそこには必しも「騒々しい感じ」を含んでゐない。若し谷崎氏の語彙《ごゐ》に従ふとすれば、「包容力の大きい」と云ふ言葉と同意味にしても善いのである。唯この「包容力の大きい」と云ふことは古来の詩人を評価する上に余り重大視されてゐはしないであらうか? ボオドレエルやラムボオを大詩人とする一群はユウゴオの上に円光をかけない。僕は彼等の心もちに少からず同情してゐる。(元来ゲエテは僕等の嫉妬を煽動する力を具へてゐる。同時代の天才に嫉妬を示さない詩人たちさへゲエテに欝憤《うつぷん》を洩らしてゐるのは少くない。しかし僕は不幸にも嫉妬を示す勇気もないものである。ゲエテは伝記の教へる所によれば、原稿料や印税の外にも年金
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