的興味と云ふ意味は事件そのものに対する興味である。僕はけふ往来に立ち、車夫と運転手との喧嘩《けんくわ》を眺めてゐた。のみならず或興味を感じた。この興味は何であらう? 僕はどう考へて見ても、芝居の喧嘩を見る時の興味と違ふとは考へられない。若《も》し違つてゐるとすれば、芝居の喧嘩は僕の上へ危険を齎《もたら》さないにも関《かかは》らず、往来の喧嘩はいつ何時《なんどき》危険を齎らすかもわからないことである。僕はかう云ふ興味を与へる文芸を否定するものではない。しかしかう云ふ興味よりも高い興味のあることを信じてゐる。若しこの興味とは何かと言へば、――僕は特に谷崎潤一郎氏にはかう答へたいと思つてゐる。――「麒麟《きりん》」の冒頭の数頁は直《ただ》ちにこの興味を与へる好個《かうこ》の一例となるであらう。
「話」らしい話のない小説は通俗的興味の乏しいものである。が、最も善い意味では決して通俗的興味に乏しくない。(それは唯「通俗的」と云ふ言葉をどう解釈するかと云ふ問題である。)ルナアルの書いたフイリツプが――詩人の目と心とを透して来たフイリツプが僕等に興味を与へるのは一半はその僕等に近い一凡人である為である。それをも亦通俗的興味と呼ぶことは必しも不当ではないであらう。(尤《もつと》も僕は僕の議論の力点を「一凡人である」と云ふことには加へたくない。「詩人の目と心とを透して来た一凡人である」と云ふことに加へたいのである。)現に僕はかう云ふ興味の為に常に文芸に親しんでゐる大勢の人を知つてゐる。僕等は勿論動物園の麒麟に驚嘆の声を吝《を》しむものではない。が、僕等の家にゐる猫にもやはり愛着《あいぢやく》を感ずるのである。
しかし或論者の言ふやうにセザンヌを画の破壊者とすれば、ルナアルも亦小説の破壊者である。この意味ではルナアルは暫く問はず、振《ふ》り香炉《かうろ》の香を帯びたジツドにもせよ、町の匂ひのするフイリツプにもせよ、多少はこの人通りの少ない、陥穽《かんせい》に満ちた道を歩いてゐるのであらう。僕はかう云ふ作家たちの仕事に――アナトオル・フランスやバレス以後の作家たちの仕事に興味を持つてゐる。僕の所謂《いはゆる》「話」らしい話のない小説はどう云ふ小説を指してゐるか、なぜ又僕はかう云ふ小説に興味を持つてゐるか、――それ等は大体上に書いた数十行の文章に尽《つ》きてゐるであらう。
二
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