13−28]《さ》し加へるだけでも大事業である。その為には新らしい花束を造る位の意気込みも必要であらう。この意気込みは或は錯覚かも知れない。が、錯覚と笑つてしまへば、古来の芸術的天才たちもやはり錯覚を追つてゐたのであらう。
 唯この意気込みにもはつきりと錯覚を認めるものは不幸である。はつきりと錯覚を認めるものは?――しかし彼等も亦おのづから多少の錯覚を持つてゐるかも知れない。僕はかう云ふ問題には何とも言はれない一人である。けれども明治大正の芸術上の総決算を見、如何に独創と云ふことの容易に出来ないかを感じずにはゐられなかつた。明治大正名作展覧会を観た人々はいろいろの画の可否を論じてゐる。しかし少くとも僕一人は可否を論じてゐる余裕さへない。

     四十 文芸上の極北

 文芸上の極北は――或は最も文芸的な文芸は僕等を静かにするだけである。僕等はそれ等の作品に接した時には恍惚《くわうこつ》となるより外に仕かたはない。文芸は――或は芸術はそこに恐しい魅力を持つてゐる。若しあらゆる人生の実行的側面を主とするとすれば、どう云ふ芸術も根柢には多少僕等を去勢する力を持つてゐるとも言はれるであらう。
 ハイネはゲエテの詩の前に正直に頭を垂れてゐる。が、円満具足したゲエテの僕等を行動に駆りやらないことに満腔《まんかう》の不平を洩らしてゐる。これは単にハイネの気もちと手軽に見て通ることの出来るものではない。ハイネはこの「ドイツ・ロマン主義運動」の一節の中《うち》に芸術の母胎へ肉迫してゐる。あらゆる芸術は芸術的になるほど、僕等の情熱(実行的な)を静まらせてしまふ。この力の支配を受けたが最後、容易にマルスの子になることは出来ない。そこに安住出来るものは――純一無雑の芸術家たちは勿論、阿呆たちもやはり幸福である。しかしハイネは不幸にもかう云ふ寂光土《じやくくわうど》を得られなかつた。
 僕はプロレタリアの戦士諸君の芸術を武器に選んでゐるのに可也《かなり》興味を持つて眺めてゐる。諸君はいつもこの武器を自由自在に揮《ふる》ふであらう。(勿論ハイネの下男ほども揮ふことの出来ないものは例外である。)しかし又この武器はいつの間にか諸君を静かに立たせるかも知れない。ハイネはこの武器に抑へられながら、しかもこの武器を揮つた一人である。ハイネの無言の呻吟は或はそこに潜んでゐたであらう。僕はこの武器の力を
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