る余地のないだけに一層致命的な弱点であります。その証拠には御覧なさい。より文字の読める文科大学教授は往々――と言ふよりも寧ろ屡《しばしば》、より文字の読めない大学生よりも鑑賞上には明めくらであります。
文芸上の作品をどう言ふ風に鑑賞すれば好いかと言ふことは勿論大問題でありますが、まづわたしの主張したいのは素直に作品に面することであります。これはかう言ふ作品とか、あれはああ言ふ作品とか言ふ心構へをしないことであります。況《いはん》や片々たる批評家の言葉などを顧慮してかかつてはいけません。片々たらざる批評家の言葉も顧慮せずにすめばしない方がよろしい。兎に角作品の与へるものをまともに受け入れることが必要であります。尤も「ではその作品は読まないにもせよ、既に二三の作品を読んだ作家の作品はどうするか?」と言ふ質問も出るかも知れません。それもやはり同じことであります。同一の作家にした所が、前のと全然異つた作品を書かないものとは限りません。現にストリントベリイなどは自然主義時代とその以後とに可成《かなり》かけ離れた作品を書いてゐます。たとへば「伯爵令嬢ユリエ」と「ダマスクスへ」とを比べて御覧なさい。残酷な前者の現実主義は夢幻的な後者の象徴主義と著しい相違を示してゐます。それをどちらかの作品から推した心構へを以て臨めば、どうしても失望――しないにもせよ、兎に角多少は鑑賞上に狂ひを生じ易いのであります。しかし勿論絶対に何等の心構へもしないと言ふことは人間業には及びません。必ずどの作品にも或は作家の人となりから、或は作家の流派から、或は又装幀だの挿画だのから、幾分かの暗示を受けてゐます。が、わたしの主張するのはそれをも排斥しろと言ふのではない、只それを出来るだけ少くしたいと言ふのであります。これは文芸の話ではない、画の話でありますが、あの、サロメの挿画を描いたビイアズレエと言ふ青年が或時或人々に何枚かの作品を示しました。するとその人々の中にゐたのはこれも名高い「カアライルの肖像」などを描いたホイツスラアであります。ホイツスラアはビイアズレエの作品に余り好意を持たずにゐましたから、その時も始は冷然として取り合ふ気色を見せずにゐました。が、一枚一枚見て行くうちに、だんだん感心し出したと見え、とうとう「美しい。非常に美しい」と言ひ出しました。それを聞いたビイアズレエは余程この先輩の賞賛が嬉しかつたと見え、思はず両手を顔に当てゝ泣き出してしまつたさうであります。ビイアズレエの作品は幸ひにもホイツスラアの持つてゐた心構へを打ち砕きました。けれども万一ホイツスラアが頑固に心構へを捨てなかつたとすれば――それは独りビイアズレエの為に不幸であるばかりではありません、ホイツスラアの為にも不幸であります。私はこの逸話を読んだ時に、さぞその時のビイアズレエは嬉しかつたらうと思ひました。同時に又その時のホイツスラアもやはり嬉しかつたらうと思ひました。わたしの心構へをするなと言ふのも他意のある訳ではありません。片々たる批評家の言葉の為にも、何かと心構へを生じ易い結果、存外一かどの作品も看過されることが多いからであります。
しかし素直に面して見ても、世界的に名高い作品さへ何の感銘も与へないことは必しもないとは限りません。かう言ふ時はどうするかと言へば、何も無理には感心したがらずに、そのまゝ少時は読まずにお置きなさい。実際如何なる傑作でも読者の年齢とか、境遇とか、或は又教養とか、種々の制限を受けることは当り前の話でありますから、誰にも容易に理解出来ないのは少しも不思議ではありません。それは自慢は出来ないにもせよ、少くとも自己を欺いて感心した風を装ふよりも恥かしいことではない筈であります。けれども前に読んだ時に理解出来なかつた作品も成る可くは読み返して御覧なさい。その内には目のさめたやうに豁然《くわつぜん》と悟入も出来るものであります。古来禅宗の坊さんは「※[#「口+卒」、第3水準1−15−7]啄《そつたく》の機」とか言ふことを言ひます。これは大悟を雛に譬《たと》へ、一羽の雛の生まれる為には卵の中の雛の啄《くちばし》と卵の外の親鳥の啄と同時に殻を破らなければならぬと言ふことを教へたものであります。文芸上の作品を理解するのもやはりこれと変りはありません。読者自身の心境さへ進めば、鑑賞上の難関も破竹のやうに抜けるものであります。ではその心境を養ふにはどう言ふ道を採るかと言へば、半ばは後に出て来る問題、――即ちどうものを鑑賞すれば好いか? 並びにどう言ふ鑑賞上の議論を参考すれば好いか? と言ふ問題にはひりますが、半ばは又人間的修業であります。或はもつと通俗的に言へば、一かどの人間になることであります。文学青年ではいけません。当世才子ではいけません。自称天才ではなほいけません。一通
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