当然当嵌る真理であります。成程《なるほど》鑑賞出来る美は必しも創作出来ないでありませう。けれども亦《また》鑑賞出来ない美は到底創作も出来ません。この故に古来の英霊漢は鑑賞上の訓練を受けた上にも更に又訓練を重ねようとしました。それも文芸上の作品の鑑賞ばかりではない、屡《しばしば》美術とか音楽とかにも鑑賞上の訓練を加へた上、その機敏に捉へ得た所を文芸上の創作に活用しました。殊にゲエテの一生はかう言ふ芸術的多慾それ自身であります。尤も鑑賞の程度が深くなる、或は鑑賞の範囲が広くなる結果、創作上の利益も多いなどと言ふことは多言を用ひずとも好いのかも知れません。が、創作に志のある、――少くとも志のあると称する青年諸君の勉強ぶりを見ると、原稿用紙と親密にする割にどうも本とは親密にしません。それではミケルアンヂェロの所謂未完成の作品を見逃してしまふ所ではない、第一フロレンスの博物館の前を素通りしてしまふのも同前であります。わたしは日頃からかう云ふ傾向を頗《すこぶ》る遺憾に思つてゐますから、冗漫の嫌ひはありますが、次手《ついで》を以て創作するのにも鑑賞上の訓練の重大である所以《ゆゑん》を弁じました。
 扨《さて》鑑賞上の訓練の必要であることは、――わたくしに都合の好いやうに解釈すれば、この鑑賞講座なるものの必要であることは上に述べましたが、今この鑑賞上の訓練を助ける為に多少の言葉を費すとすると、それはざつと下に挙げる三点になるかと思ひます。即ちその三点と言ふのは(一)どう言ふ風に鑑賞すれば好いか? (二)どう言ふものを鑑賞すれば好いか? (三)どう言ふ鑑賞上の議論を参考すれば好いか?――と言ふことになるのであります。或は鑑賞上の訓練を助ける言葉は必しも上の三点に尽きてゐないかも知れません。けれどもまづ上の三点は比較的重大の問題を尽してゐると言つても好いかと思ひます。そこで愈《いよいよ》どう云ふ風に鑑賞すれば好いか? と言ふ最初の問題にはいりますが、その前にちよつと注意して置きたいのは鑑賞の始まる境であります。盲人は絵画の鑑賞に与《あづか》らなければ、聾者も音楽の鑑賞には与りません。同様に又文芸の鑑賞もまづ文字を読んでその意味を理解する所から始まるのであります。万一文芸の鑑賞に志しながら、文字の読めない人があるとすれば、早速文字を稽古おしなさい。――と言ふと常談のやうに聞えますが、この
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