ンレイと云う新形の靴が流行《はや》ったのに、この男の靴は、一体に光沢《つや》を失って、その上先の方がぱっくり口を開《あ》いていたからである。
「パッキンレイはよかった。」こう云って、皆|一時《いちどき》に、失笑した。
それから、自分たちは、いい気になって、この待合室に出入《しゅつにゅう》するいろいろな人間を物色しはじめた。そうして一々、それに、東京の中学生でなければ云えないような、生意気な悪口を加え出した。そう云う事にかけて、ひけをとるような、おとなしい生徒は、自分たちの中に一人もいない。中でも能勢の形容が、一番|辛辣《しんらつ》で、かつ一番|諧謔《かいぎゃく》に富んでいた。
「能勢《のせ》、能勢、あのお上《かみ》さんを見ろよ。」
「あいつは河豚《ふぐ》が孕《はら》んだような顔をしているぜ。」
「こっちの赤帽も、何かに似ているぜ。ねえ能勢。」
「あいつはカロロ五世さ。」
しまいには、能勢が一人で、悪口を云う役目をひきうけるような事になった。
すると、その時、自分たちの一人は、時間表の前に立って、細《こまか》い数字をしらべている妙な男を発見した。その男は羊羹色《ようかんいろ》の背広を着て、体操に使う球竿《きゅうかん》のような細い脚を、鼠の粗い縞のズボンに通している。縁《ふち》の広い昔風の黒い中折れの下から、半白《はんぱく》の毛がはみ出している所を見ると、もうかなりな年配らしい。その癖|頸《くび》のまわりには、白と黒と格子縞《こうしじま》の派手《はで》なハンケチをまきつけて、鞭《むち》かと思うような、寒竹《かんちく》の長い杖をちょいと脇《わき》の下へはさんでいる。服装と云い、態度と云い、すべてが、パンチの挿絵《さしえ》を切抜いて、そのままそれを、この停車場の人ごみの中へ、立たせたとしか思われない。――自分たちの一人は、また新しく悪口の材料が出来たのをよろこぶように、肩でおかしそうに笑いながら、能勢の手をひっぱって、
「おい、あいつはどうだい。」とこう云った。
そこで、自分たちは、皆その妙な男を見た。男は少し反《そ》り身になりながら、チョッキのポケットから、紫の打紐《うちひも》のついた大きなニッケルの懐中時計を出して、丹念《たんねん》にそれと時間表の数字とを見くらべている。横顔だけ見て、自分はすぐに、それが能勢の父親だと云う事を知った。
しかし、そこにいた自分たちの連中には、一人もそれを知っている者がない。だから皆、能勢の口から、この滑稽な人物を、適当に形容する語《ことば》を聞こうとして、聞いた後の笑いを用意しながら、面白そうに能勢の顔をながめていた。中学の四年生には、その時の能勢の心もちを推測する明《めい》がない。自分は危く「あれは能勢の父《ファザア》だぜ。」と云おうとした。
するとその時、
「あいつかい。あいつはロンドン乞食《こじき》さ。」
こう云う能勢の声がした。皆が一時にふき出したのは、云うまでもない。中にはわざわざ反り身になって、懐中時計を出しながら、能勢の父親の姿《スタイル》を真似て見る者さえある。自分は、思わず下を向いた。その時の能勢の顔を見るだけの勇気が、自分には欠けていたからである。
「そいつは適評だな。」
「見ろ。見ろ。あの帽子を。」
「日《ひ》かげ町《ちょう》か。」
「日かげ町にだってあるものか。」
「じゃあ博物館だ。」
皆がまた、面白そうに笑った。
曇天の停車場は、日の暮のようにうす暗い。自分は、そのうす暗い中で、そっとそのロンドン乞食の方をすかして見た。
すると、いつの間にか、うす日がさし始めたと見えて、幅の狭い光の帯が高い天井の明り取りから、茫《ぼう》と斜めにさしている。能勢の父親は、丁度その光の帯の中にいた。――周囲では、すべての物が動いている。眼のとどく所でも、とどかない所でも動いている。そうしてまたその運動が、声とも音ともつかないものになって、この大きな建物の中を霧のように蔽《おお》っている。しかし能勢の父親だけは動かない。この現代と縁のない洋服を着た、この現代と縁のない老人は、めまぐるしく動く人間の洪水の中に、これもやはり現代を超越した、黒の中折をあみだにかぶって、紫の打紐のついた懐中時計を右の掌《たなごころ》の上にのせながら、依然としてポンプの如く時間表の前に佇立《ちょりつ》しているのである……
あとで、それとなく聞くと、その頃大学の薬局に通っていた能勢の父親は、能勢が自分たちと一しょに修学旅行に行く所を、出勤の途すがら見ようと思って、自分の子には知らせずに、わざわざ停車場へ来たのだそうである。
能勢五十雄は、中学を卒業すると間もなく、肺結核《はいけっかく》に罹《かか》って、物故した。その追悼式《ついとうしき》を、中学の図書室で挙げた時、制帽をかぶった能勢の写真の前で悼
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