梅花に対する感情
このジャアナリズムの一篇を謹厳なる西川英次郎君に献ず
芥川龍之介
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)瓊姿只合在瑤台《けいしただまさにえうだいにあるべし》
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号)
(例)※[#「木+厥」、第3水準1−86−15]
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予等は芸術の士なるが故に、如実に万象を観ざる可らず。少くとも万人の眼光を借らず、予等の眼光を以て見ざる可らず。古来偉大なる芸術の士は皆この独自の眼光を有し、おのづから独自の表現を成せり。ゴッホの向日葵の写真版の今日もなほ愛翫せらるる、豈偶然の結果ならんや。(幸ひに GOGH をゴッホと呼ぶ発音の誤りを咎むること勿れ。予は ANDERSEN をアナアセンと呼ばず、アンデルゼンと呼ぶを恥ぢざるものなり。)
こは芸術を使命とするものには白日よりも明らかなる事実なり。然れども独自の眼を以てするは必しも容易の業にあらず。(否、絶対に[#「絶対に」に傍点]独自の眼を以てするは不可能と云ふも妨げざる可し。)殊に万人の詩に入ること、屡なりし景物を見るに独自の眼光を以てするは予等の最も難しとする所なり。試みに「暮春」の句を成すを思へ。蕪村の「暮春」を詠ぜし後、誰か又独自の眼光を以て「暮春」を詠じ得るの確信あらんや。梅花の如きもその一のみ。否、正にその最たるものなり。
梅花は予に伊勢物語の歌より春信の画に至る柔媚の情を想起せしむることなきにあらず。然れども梅花を見る毎に、まづ予の心を捉ふるものは支那に生じたる文人趣味なり。こは啻に予のみにあらず、大方の君子も亦然るが如し。(是に於て乎、中央公論記者も「梅花の賦」なる語を用ゐるならん。)梅花を唯愛すべきジエヌス・プリヌスの花と做すは紅毛碧眼の詩人のことのみ。予等は梅花の一弁にも、鶴を想ひ、初月を想ひ、空山を想ひ、野水を想ひ、断角を想ひ、書燈を想ひ、脩竹を想ひ、清霜を想ひ、羅浮を想ひ、仙妃を想ひ、林処士の風流を想はざる能はず。既に斯くの如しとせば、予等独自の眼光を以て万象を観んとする芸術の士の、梅花に好意を感ぜざるは必しも怪しむを要せざるべし。(こは夙に永井荷風氏の「日本の庭」の一章たる「梅」の中に道破せる真理なり。文壇は詩人も心臓以外に脳髄を有するの事実を認めず。是予に今
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