子は美人と言うほどではない。もっともまた醜婦《しゅうふ》と言うほどでもない。ただまるまる肥《ふと》った頬《ほお》にいつも微笑《びしょう》を浮かべている。奉天《ほうてん》から北京《ペキン》へ来る途中、寝台車の南京虫《なんきんむし》に螫《さ》された時のほかはいつも微笑を浮かべている。しかももう今は南京虫に二度と螫《さ》される心配はない。それは××胡同《ことう》の社宅の居間《いま》に蝙蝠印《こうもりじるし》の除虫菊《じょちゅうぎく》が二缶《ふたかん》、ちゃんと具えつけてあるからである。
わたしは半三郎の家庭生活は平々凡々を極めていると言った。実際その通りに違いない。彼はただ常子と一しょに飯を食ったり、蓄音機《ちくおんき》をかけたり、活動写真を見に行ったり、――あらゆる北京中《ペキンじゅう》の会社員と変りのない生活を営《いとな》んでいる。しかし彼等の生活も運命の支配に漏《も》れる訣《わけ》には行《ゆ》かない。運命はある真昼の午後、この平々凡々たる家庭生活の単調を一撃のもとにうち砕《くだ》いた。三菱《みつびし》会社員忍野半三郎は脳溢血《のういっけつ》のために頓死《とんし》したのである。
半三
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