を勧《すす》め出した。しかし彼は熱心に細引を脚へからげながら、どうしてもその勧めに従わない。
「あんな藪《やぶ》医者に何がわかる? あいつは泥棒だ! 大詐偽《おおさぎ》師だ! それよりもお前、ここへ来て俺の体を抑《おさ》えていてくれ。」
 彼等は互に抱《だ》き合ったなり、じっと長椅子に坐っていた。北京《ペキン》を蔽《おお》った黄塵《こうじん》はいよいよ烈しさを加えるのであろう。今は入り日さえ窓の外に全然光と言う感じのしない、濁《にご》った朱《しゅ》の色を漂《ただよ》わせている。半三郎の脚はその間も勿論静かにしている訣《わけ》ではない。細引にぐるぐる括《くく》られたまま、目に見えぬペダルを踏むようにやはり絶えず動いている。常子は夫を劬《いた》わるように、また夫を励ますようにいろいろのことを話しかけた。
「あなた、あなた、どうしてそんなに震えていらっしゃるんです?」
「何《なん》でもない。何でもないよ。」
「だってこんなに汗をかいて、――この夏は内地へ帰りましょうよ。ねえ、あなた、久しぶりに内地へ帰りましょうよ。」
「うん、内地へ帰ることにしよう。内地へ帰って暮らすことにしよう。」
 五分、十分、二十分、――時はこう言う二人の上に遅い歩みを運んで行った。常子は「順天時報《じゅんてんじほう》」の記者にこの時の彼女の心もちはちょうど鎖《くさり》に繋《つな》がれた囚人《しゅうじん》のようだったと話している。が、かれこれ三十分の後《のち》、畢《つい》に鎖の断《た》たれる時は来た。もっともそれは常子の所謂《いわゆる》鎖の断たれる時ではない。半三郎を家庭へ縛りつけた人間の鎖の断たれる時である。濁った朱の色を透《す》かせた窓は流れ風にでも煽《あお》られたのか、突然がたがたと鳴り渡った。と同時に半三郎は何か大声を出すが早いか、三尺ばかり宙へ飛び上った。常子はその時細引のばらりと切れるのを見たそうである。半三郎は、――これは常子の話ではない。彼女は夫の飛び上るのを見たぎり、長椅子《ながいす》の上に失神してしまった。しかし社宅の支那人のボオイはこう同じ記者に話している。――半三郎は何かに追われるように社宅の玄関へ躍《おど》り出た。それからほんの一瞬間、玄関の先に佇《たたず》んでいた。が、身震《みぶる》いを一つすると、ちょうど馬の嘶《いなな》きに似た、気味の悪い声を残しながら、往来を罩《こ》
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