ゅんぷう》の北京《ペキン》へ運んで来る砂埃《すなほこ》りである。「順天時報《じゅんてんじほう》」の記事によれば、当日の黄塵は十数年来|未《いま》だ嘗《かつて》見ないところであり、「五歩の外に正陽門《せいようもん》を仰ぐも、すでに門楼《もんろう》を見るべからず」と言うのであるから、よほど烈しかったのに違いない。然るに半三郎の馬の脚は徳勝門外《とくしょうもんがい》の馬市《うまいち》の斃馬《へいば》についていた脚であり、そのまた斃馬は明らかに張家口《ちょうかこう》、錦州《きんしゅう》を通って来た蒙古産の庫倫《クーロン》馬である。すると彼の馬の脚の蒙古の空気を感ずるが早いか、たちまち躍ったり跳ねたりし出したのはむしろ当然ではないであろうか? かつまた当時は塞外《さいがい》の馬の必死に交尾《こうび》を求めながら、縦横《じゅうおう》に駈《か》けまわる時期である。して見れば彼の馬の脚がじっとしているのに忍びなかったのも同情に価《あたい》すると言わなければならぬ。……
 この解釈の是非《ぜひ》はともかく、半三郎は当日会社にいた時も、舞踏か何かするように絶えず跳ねまわっていたそうである。また社宅へ帰る途中も、たった三町ばかりの間に人力車《じんりきしゃ》を七台踏みつぶしたそうである。最後に社宅へ帰った後《のち》も、――何《なん》でも常子の話によれば、彼は犬のように喘《あえ》ぎながら、よろよろ茶の間《ま》へはいって来た。それからやっと長椅子《ながいす》へかけると、あっけにとられた細君に細引《ほそびき》を持って来いと命令した。常子は勿論夫の容子《ようす》に大事件の起ったことを想像した。第一顔色も非常に悪い。のみならず苛立《いらだ》たしさに堪えないように長靴《ながぐつ》の脚を動かしている。彼女はそのためにいつものように微笑《びしょう》することも忘れたなり、一体細引を何にするつもりか、聞かしてくれと歎願した。しかし夫《おっと》は苦しそうに額《ひたい》の汗を拭いながら、こう繰り返すばかりである。
「早くしてくれ。早く。――早くしないと、大変だから。」
 常子はやむを得ず荷造りに使う細引を一束《ひとたば》夫へ渡した。すると彼はその細引に長靴の両脚を縛《しば》りはじめた。彼女の心に発狂と言う恐怖のきざしたのはこの時である。常子は夫を見つめたまま、震《ふる》える声に山井博士の来診《らいしん》を請うこと
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