年末の一日
芥川龍之介
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)崖《がけ》の上を
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)朝飯《あさめし》兼|昼飯《ひるめし》を
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)赤※[#「金+肅」、第3水準1−93−39]《あかさび》の
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………僕は何でも雑木の生えた、寂しい崖《がけ》の上を歩いて行った。崖の下はすぐに沼になっていた。その又沼の岸寄りには水鳥が二羽泳いでいた。どちらも薄い苔《こけ》の生えた石の色に近い水鳥だった。僕は格別その水鳥に珍しい感じは持たなかった。が、余り翼などの鮮かに見えるのは無気味だった。――
――僕はこう言う夢の中からがたがた言う音に目をさました。それは書斎と鍵の手になった座敷の硝子戸《ガラスど》の音らしかった。僕は新年号の仕事中、書斎に寝床をとらせていた。三軒の雑誌社に約束した仕事は三篇とも僕には不満足だった。しかし兎《と》に角《かく》最後の仕事はきょうの夜明け前に片づいていた。
寝床の裾《すそ》の障子には竹の影もちらちら映っていた。僕は思い切って起き上り、一まず後架《こうか》へ小便をしに行った。近頃この位小便から水蒸気の盛んに立ったことはなかった。僕は便器に向いながら、今日はふだんよりも寒いぞと思った。
伯母や妻は座敷の縁側にせっせと硝子戸を磨いていた。がたがた言うのはこの音だった。袖無《そでな》しの上へ襷《たすき》をかけた伯母はバケツの雑巾《ぞうきん》を絞りながら、多少僕にからかうように「お前、もう十二時ですよ」と言った。成程十二時に違いなかった。廊下を抜けた茶の間にはいつか古い長火鉢の前に昼飯の支度も出来上っていた。のみならず母は次男の多加志《たかし》に牛乳やトオストを養っていた。しかし僕は習慣上朝らしい気もちを持ったまま、人気のない台所へ顔を洗いに行った。
朝飯《あさめし》兼|昼飯《ひるめし》をすませた後、僕は書斎の置《お》き炬燵《ごたつ》へはいり、二三種の新聞を読みはじめた。新聞の記事は諸会社のボオナスや羽子板の売れ行きで持ち切っていた。けれども僕の心もちは少しも陽気にはならなかった。僕は仕事をすませる度に妙に弱るのを常としていた。それは房後の疲労のよ
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