に入ろうとしているらしい。……
 が、おれはお君さんの名誉のためにつけ加える。その時お君さんの描いた幻の中には、時々暗い雲の影が、一切《いっさい》の幸福を脅《おびやか》すように、底気味悪く去来していた。成程お君さんは田中君を恋しているのに違いない。しかしその田中君は、実はお君さんの芸術的感激が円光を頂《いただ》かせた田中君である。詩も作る、ヴァイオリンも弾《ひ》く、油絵の具も使う、役者も勤める、歌骨牌《うたがるた》も巧《うま》い、薩摩琵琶も出来るサア・ランスロットである。だからお君さんの中にある処女《しょじょ》の新鮮な直観性は、どうかするとこのランスロットのすこぶる怪しげな正体を感ずる事がないでもない。暗い不安の雲の影は、こう云う時にお君さんの幻の中を通りすぎる。が、遺憾ながらその雲の影は、現れるが早いか消えてしまう。お君さんはいくら大人《おとな》じみていても、十六とか十七とか云う少女である。しかも芸術的感激に充ち満ちている少女である。着物を雨で濡らす心配があるか、ライン河の入日の画端書《えはがき》に感嘆の声を洩《も》らす時のほかは、滅多《めった》に雲の影などへ心を止《と》めないのも不思議ではない。いわんや今は薔薇《ばら》の花の咲き乱れている路に、養殖真珠の指環だの翡翠まがいの帯止めだのが――以下は前に書いた通りだから、そこを読み返して頂きたい。
 お君さんは長い間、シャヴァンヌの聖《サン》・ジュヌヴィエヴのごとく、月の光に照らされた瓦屋根を眺めて立っていたが、やがて嚏《くさめ》を一つすると、窓の障子をばたりとしめて、また元の机の際《きわ》へ横坐りに坐ってしまった。それから翌日の午後六時までお君さんが何をしていたか、その間の詳しい消息《しょうそく》は、残念ながらおれも知っていない。何故《なぜ》作者たるおれが知っていないのかと云うと――正直に云ってしまえ。おれは今夜中にこの小説を書き上げなければならないからである。
 翌日の午後六時、お君さんは怪しげな紫紺《しこん》の御召《おめし》のコオトの上にクリイム色の肩掛をして、いつもよりはそわそわと、もう夕暗に包まれた小川町の電車停留場へ行った。行くとすでに田中君は、例のごとく鍔広《つばびろ》の黒い帽子を目深《まぶか》くかぶって、洋銀の握りのついた細い杖をかいこみながら、縞の荒い半オオヴァの襟を立てて、赤い電燈のともった下に、ちゃんと佇《たたず》んで待っている。色の白い顔がいつもより一層また磨きがかかって、かすかに香水の※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]《におい》までさせている容子《ようす》では、今夜は格別身じまいに注意を払っているらしい。
「御待たせして?」
 お君さんは田中君の顔を見上げると、息のはずんでいるような声を出した。
「なあに。」
 田中君は大様《おおよう》な返事をしながら、何とも判然しない微笑を含んだ眼で、じっとお君さんの顔を眺めた。それから急に身ぶるいを一つして、
「歩こう、少し。」
とつけ加えた。いや、つけ加えたばかりではない。田中君はもうその時には、アアク燈に照らされた人通りの多い往来を、須田町《すだちょう》の方へ向って歩き出した。サアカスがあるのは芝浦《しばうら》である。歩くにしてもここからは、神田橋《かんだばし》の方へ向って行かなければならない。お君さんはまだ立止ったまま、埃風《ほこりかぜ》に飜《ひるがえ》るクリイム色の肩掛へ手をやって、
「そっち?」
と不思議そうに声をかけた。が、田中君は肩越しに、
「ああ。」
と軽く答えたぎり、依然として須田町の方へ歩いて行く。そこでお君さんもほかに仕方がないから、すぐに田中君へ追いつくと、葉を振《ふる》った柳の並樹《なみき》の下を一しょにいそいそと歩き出した。するとまた田中君は、あの何とも判然しない微笑を眼の中に漂わせて、お君さんの横顔を窺《うかが》いながら、
「お君さんには御気の毒だけれどもね、芝浦のサアカスは、もう昨夜《ゆうべ》でおしまいなんだそうだ。だから今夜は僕の知っている家《うち》へ行って、一しょに御飯でも食べようじゃないか。」
「そう、私《わたし》どっちでも好いわ。」
 お君さんは田中君の手が、そっと自分の手を捕《とら》えたのを感じながら、希望と恐怖とにふるえている、かすかな声でこう云った。と同時にまたお君さんの眼にはまるで「不如帰《ほととぎす》」を読んだ時のような、感動の涙が浮んできた。この感動の涙を透《とお》して見た、小川町、淡路町《あわじちょう》、須田町の往来が、いかに美しかったかは問うを待たない。歳暮《せいぼ》大売出しの楽隊の音、目まぐるしい仁丹《じんたん》の広告電燈、クリスマスを祝う杉の葉の飾《かざり》、蜘蛛手《くもで》に張った万国国旗、飾窓《かざりまど》の中のサンタ・クロス、露店に並んだ
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