ければ、そう云う場所へ行って見るが好《い》い。おれが書くのはもう真平御免《まっぴらごめん》だ。第一おれが田中君の紹介の労を執《と》っている間に、お君さんはいつか立上って、障子を開けた窓の外の寒い月夜を眺めているのだから。
瓦屋根《かわらやね》の上の月の光は、頸《くび》の細い硝子《ガラス》の花立てにさした造花の百合《ゆり》を照らしている。壁に貼ったラファエルの小さなマドンナを照らしている。そうしてまたお君さんの上を向いた鼻を照らしている。が、お君さんの涼しい眼には、月の光も映っていない。霜の下りたらしい瓦屋根も、存在しないのと同じ事である。田中君は今夜カッフェから、お君さんをここまで送って来た。そうして明日《あす》の晩は二人で、楽しく暮そうと云う約束までした。明日はちょうど一月に一度あるお君さんの休日《やすみび》だから、午後六時に小川町《おがわまち》の電車停留場で落合って、それから芝浦《しばうら》にかかっている伊太利人《イタリイじん》のサアカスを見に行こうと云うのである。お君さんは今日《きょう》までに、未嘗《いまだかつて》男と二人で遊びに出かけた覚えなどはない。だから明日の晩田中君と、世間の恋人同士のように、つれ立って夜の曲馬《きょくば》を見に行く事を考えると、今更のように心臓の鼓動《こどう》が高くなって来る。お君さんにとって田中君は、宝窟《ほうくつ》の扉を開くべき秘密の呪文《じゅもん》を心得ているアリ・ババとさらに違いはない。その呪文が唱えられた時、いかなる未知の歓楽境がお君さんの前に出現するか。――さっきから月を眺めて月を眺めないお君さんが、風に煽《あお》られた海のごとく、あるいはまた将《まさ》に走らんとする乗合自動車のモオタアのごとく、轟く胸の中に描いているのは、実にこの来るべき不可思議《ふかしぎ》の世界の幻であった。そこには薔薇《ばら》の花の咲き乱れた路《みち》に、養殖真珠の指環《ゆびわ》だの翡翠《ひすい》まがいの帯止めだのが、数限りもなく散乱している。夜鶯《ナイチンゲエル》の優しい声も、すでに三越《みつこし》の旗の上から、蜜を滴《したたら》すように聞え始めた。橄欖《かんらん》の花の※[#「均のつくり」、第3水準1−14−75]《にお》いの中に大理石を畳んだ宮殿では、今やミスタア・ダグラス・フェアバンクスと森律子嬢《もりりつこじょう》との舞踏が、いよいよ佳境
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