微笑
芥川龍之介

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)久米正雄《くめまさを》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)或|暮方《くれがた》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から1字上げ](大正十四年)
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 僕が大学を卒業した年の夏、久米正雄《くめまさを》と一緒《いつしよ》に上総《かづさ》の一《いち》ノ宮《みや》の海岸に遊びに行つた。それは遊びに行つたといつても、本を読んだり、原稿を書いたりしてゐたには違ひないが、まあ一日の大部分は海にはひつたり、散歩したりして暮してゐた。
 或|暮方《くれがた》、僕等は一《いち》ノ宮《みや》の町へ散歩に行き、もう人の顔も見えない頃、ぶらぶら宿の方へ帰つて来た。道は宿へ辿《たど》り着くためには、弘法麦《こうぼふむぎ》や防風《ばうふう》の生えた砂山を一つ越えなければならぬ。丁度《ちやうど》、その砂山の上に来た時、久米《くめ》は何か叫ぶが早いか一目散《いちもくさん》に砂山を駆《か》け降《お》りて行つた。僕はどうしたのだかわからなかつたが、兎《と》に角《かく》、何か駆けなければならぬ必要があるのだらうと思つたから、矢張《やはり》、その後から駆け出すことにした。それは人目《ひとめ》のない砂山の上に、たつた独り取残されるのは薄気味悪いといふことも手伝つてゐるのに違ひない。しかし、久米は何《なん》といつても中学の野球の選手などをしたことのある男である。僕はまだ一町と駆けないうちに、忽ち久米の姿を見失つてしまつた。
 十分ばかり経《た》つた後《のち》、僕は息を切らしながら、当時僕等の借りてゐた、宿《やど》の離室《はなれ》に帰つて来た。離室はたつた二間《ふたま》しかない。だから見透《みす》かし同様なのだが、どこにも久米の姿は見えなかつた。しかし、下駄《げた》のぬいであるところを見ると、兎《と》に角《かく》、帰つて来てゐるのには違ひない。そこで僕は大きな声を出して、
「おい、久米。」
 と呼んでみた。するとどこかで、
「何《な》ンだ。」
 といふ返事があつた。けれどもどこにゐるんだか、矢張《やはり》、見当はつかなかつた。
「おい、久米。」
 僕はもう一度かう声をかけた。
「何《な》ンだよう。」
 久米ももう一度返事をした。今度は久米のゐるところも大体僕にあきらかになつた。僕は縁側伝ひに後架《こうか》の前に行《ゆ》き、
「何《な》ンだつてあんなに駆け出したんだ。」
 と言つた。僕の声は疑ひもなく多少の怒りを含んでゐた。すると久米も腹をたてたやうに、かう中から返事をした。
「だつて、駆け出さなくちやあ、間《ま》に合はないぢやないか。」
 爾来《じらい》、七八年の日月《じつげつ》は河のやうに流れ去つた。僕はもう何時《いつ》の間《ま》にか額《ひたひ》の禿上《はげあが》るのを嘆じてゐる。久米も、今ではあの時のやうに駆け出す勇気などはないに違ひない。[#地から1字上げ](大正十四年)



底本:「筑摩全集類聚 芥川龍之介全集第四巻」筑摩書房
   1971(昭和46)年6月5日初版第1刷発行
   1979(昭和54)年4月10日初版第11刷発行
入力:土屋隆
校正:松永正敏
2007年6月26日作成
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終わり
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