驍ェね。しかしその前にもう一度ロンドンへ行って来なければならない。……時にこれを君に見せたかしら?」
 彼は机の抽斗《ひきだし》から白い天鵞絨《びろうど》の筐《はこ》を出した。筐の中にはいっているのは細いプラティナの指環《ゆびわ》だった。僕はその指環を手にとって見、内側に雕《ほ》ってある「桃子《ももこ》へ」と云う字に頬笑《ほほえ》まない訣《わけ》には行《ゆ》かなかった。
「僕はその『桃子へ』の下に僕の名を入れるように註文《ちゅうもん》したんだけれど。」
 それはあるいは職人の間違いだったかも知れなかった。しかしまたあるいはその職人が相手の女の商売を考え、故《ことさ》らに外国人の名前などは入れずに置いたかも知れなかった。僕はそんなことを気にしない彼に同情よりもむしろ寂しさを感じた。
「この頃はどこへ行っているんだい?」
「柳橋《やなぎばし》だよ。あすこは水の音が聞えるからね。」
 これもやはり東京人の僕には妙に気《き》の毒《どく》な言葉だった。しかし彼はいつの間《ま》にか元気らしい顔色《かおいろ》に返り、彼の絶えず愛読している日本文学の話などをし出した。
「この間|谷崎潤一郎《たにざきじ
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