ワた酔《よい》の醒《さ》めて来るのも感じた。
「僕はもう帰る。」
「そうか? じゃ僕は……」
「どこかこの近所へ沈んで行けよ。」
僕等はちょうど京橋《きょうばし》の擬宝珠《ぎぼし》の前に佇《たたず》んでいた。人気《ひとけ》のない夜更《よふ》けの大根河岸《だいこんがし》には雪のつもった枯れ柳が一株、黒ぐろと澱《よど》んだ掘割りの水へ枝を垂らしているばかりだった。
「日本《にほん》だね、とにかくこう云う景色は。」
彼は僕と別れる前にしみじみこんなことを言ったものだった。
三
彼は生憎《あいにく》希望通りに従軍することは出来なかった。が、一度ロンドンへ帰った後《のち》、二三年ぶりに日本に住むことになった。しかし僕等は、――少くとも僕はいつかもうロマン主義を失っていた。もっともこの二三年は彼にも変化のない訣《わけ》ではなかった。彼はある素人下宿《しろうとげしゅく》の二階に大島《おおしま》の羽織や着物を着、手あぶりに手をかざしたまま、こう云う愚痴《ぐち》などを洩らしていた。
「日本もだんだん亜米利加《アメリカ》化するね。僕は時々日本よりも仏蘭西《フランス》に住もうかと思うことがある。」
「それは誰でも外国人はいつか一度は幻滅《げんめつ》するね。ヘルンでも晩年はそうだったんだろう。」
「いや、僕は幻滅したんじゃない。illusion を持たないものに disillusion のあるはずはないからね。」
「そんなことは空論じゃないか? 僕などは僕自身にさえ、――未《いま》だに illusion を持っているだろう。」
「それはそうかも知れないがね。……」
彼は浮かない顔をしながら、どんよりと曇った高台《たかだい》の景色を硝子《ガラス》戸越しに眺めていた。
「僕は近々《きんきん》上海《シャンハイ》の通信員になるかも知れない。」
彼の言葉は咄嗟《とっさ》の間《あいだ》にいつか僕の忘れていた彼の職業を思い出させた。僕はいつも彼のことをただ芸術的な気質《きしつ》を持った僕等の一人《ひとり》に考えていた。しかし彼は衣食する上にはある英字新聞の記者を勤《つと》めているのだった。僕はどう云う芸術家も脱却《だっきゃく》出来ない「店《みせ》」を考え、努《つと》めて話を明るくしようとした。
「上海《シャンハイ》は東京よりも面白《おもしろ》いだろう。」
「僕もそう思っているがね。しかしその前にもう一度ロンドンへ行って来なければならない。……時にこれを君に見せたかしら?」
彼は机の抽斗《ひきだし》から白い天鵞絨《びろうど》の筐《はこ》を出した。筐の中にはいっているのは細いプラティナの指環《ゆびわ》だった。僕はその指環を手にとって見、内側に雕《ほ》ってある「桃子《ももこ》へ」と云う字に頬笑《ほほえ》まない訣《わけ》には行《ゆ》かなかった。
「僕はその『桃子へ』の下に僕の名を入れるように註文《ちゅうもん》したんだけれど。」
それはあるいは職人の間違いだったかも知れなかった。しかしまたあるいはその職人が相手の女の商売を考え、故《ことさ》らに外国人の名前などは入れずに置いたかも知れなかった。僕はそんなことを気にしない彼に同情よりもむしろ寂しさを感じた。
「この頃はどこへ行っているんだい?」
「柳橋《やなぎばし》だよ。あすこは水の音が聞えるからね。」
これもやはり東京人の僕には妙に気《き》の毒《どく》な言葉だった。しかし彼はいつの間《ま》にか元気らしい顔色《かおいろ》に返り、彼の絶えず愛読している日本文学の話などをし出した。
「この間|谷崎潤一郎《たにざきじゅんいちろう》の『悪魔』と云う小説を読んだがね、あれは恐らく世界中で一番|汚《きたな》いことを書いた小説だろう。」
(何箇月かたった後《のち》、僕は何かの話の次手《ついで》に『悪魔』の作家に彼の言葉を話した。するとこの作家は笑いながら、無造作《むぞうさ》に僕にこう言うのだった。――「世界一ならば何《なん》でも好《い》い。」!)
「『虞美人草《ぐびじんそう》』は?」
「あれは僕の日本語じゃ駄目《だめ》だ。……きょうは飯《めし》ぐらいはつき合えるかね?」
「うん、僕もそのつもりで来たんだ。」
「じゃちょっと待ってくれ。そこに雑誌が四五冊あるから。」
彼は口笛を吹きながら、早速《さっそく》洋服に着換え出した。僕は彼に背《せ》を向けたまま、漫然とブック・マンなどを覗《のぞ》いていた。すると彼は口笛の合い間《ま》に突然短い笑い声を洩らし、日本語でこう僕に話しかけた。
「僕はもうきちりと坐ることが出来るよ。けれどもズボンがイタマシイですね。」
四
僕が最後に彼に会ったのは上海《シャンハイ》のあるカッフェだった。(彼はそれから半年《はんとし》ほど後《のち》、天然痘《てんねんと
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