B世界中の人間が損をしたんだ。」
 僕等はもう船の灯《ひ》の多い黄浦江《こうほこう》の岸を歩いていた。彼はちょっと歩みをとめ、顋《あご》で「見ろ」と云う合図《あいず》をした。靄《もや》の中に仄《ほの》めいた水には白い小犬の死骸が一匹、緩《ゆる》い波に絶えず揺《ゆ》すられていた。そのまた小犬は誰の仕業《しわざ》か、頸《くび》のまわりに花を持った一つづりの草をぶら下げていた。それは惨酷《ざんこく》な気がすると同時に美しい気がするのにも違いなかった。のみならず僕は彼がうたった万葉集《まんようしゅう》の歌以来、多少感傷主義に伝染していた。
「ニニイだね。」
「さもなければ僕の中の声楽家だよ。」
 彼はこう答えるが早いか、途方《とほう》もなく大きい嚔《くさ》めをした。

        五

 ニイスにいる彼の妹さんから久しぶりに手紙の来たためであろう。僕はつい二三日|前《まえ》の夜《よる》、夢の中に彼と話していた。それはどう考えても、初対面の時に違いなかった。カミンも赤あかと火を動かしていれば、そのまた火《ほ》かげも桃花心木《マホガニイ》のテエブルや椅子《いす》に映《うつ》っていた。僕は妙に疲労しながら、当然僕等の間《あいだ》に起る愛蘭土《アイルランド》の作家たちの話をしていた。しかし僕にのしかかって来る眠気《ねむけ》と闘うのは容易ではなかった。僕は覚束《おぼつか》ない意識の中《うち》にこう云う彼の言葉を聞いたりした。
「I detest Bernard Shaw.」
 しかし僕は腰かけたまま、いつかうとうと眠ってしまった。すると、――おのずから目を醒《さ》ました。夜《よ》はまだ明け切らずにいるのであろう。風呂敷《ふろしき》に包んだ電燈は薄暗い光を落している。僕は床《とこ》の上に腹這《はらば》いになり、妙な興奮を鎮《しず》めるために「敷島《しきしま》」に一本火をつけて見た。が、夢の中に眠った僕が現在に目を醒《さ》ましているのはどうも無気味《ぶきみ》でならなかった。
[#地から1字上げ](大正十五年十一月二十九日)



底本:「芥川龍之介全集6」ちくま文庫、筑摩書房
   1987(昭和62)年3月24日第1刷発行
   1993(平成5)年2月25日第6刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年3月〜1971(昭和46)年11月
入力:j.utiyama
校正:もりみつじゅんじ
1999年3月1日公開
2004年3月8日修正
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