うに吠《ほ》えたきり、もう一度もと来た熊笹《くまざさ》の中へ姿を隠してしまったと云う。一行は皆この犬が来たのは神明《しんめい》の加護だと信じている。
時事新報[#「時事新報」はゴシック体]。十三日(九月)名古屋市の大火は焼死者十余名に及んだが、横関《よこぜき》名古屋市長なども愛児を失おうとした一人である。令息|武矩《たけのり》(三歳)はいかなる家族の手落からか、猛火の中の二階に残され、すでに灰燼《かいじん》となろうとしたところを、一匹の黒犬のために啣《くわ》え出された。市長は今後名古屋市に限り、野犬|撲殺《ぼくさつ》を禁ずると云っている。
読売新聞[#「読売新聞」はゴシック体]。小田原町《おだわらまち》城内公園に連日の人気を集めていた宮城《みやぎ》巡回動物園のシベリヤ産|大狼《おおおおかみ》は二十五日(十月)午後二時ごろ、突然|巌乗《がんじょう》な檻《おり》を破り、木戸番《きどばん》二名を負傷させた後《のち》、箱根《はこね》方面へ逸走《いっそう》した。小田原署はそのために非常動員を行い、全町に亘《わた》る警戒線を布《し》いた。すると午後四時半ごろ右の狼は十字町《じゅうじまち》に現れ、一匹の黒犬と噛《か》み合いを初めた。黒犬は悪戦|頗《すこぶ》る努め、ついに敵を噛み伏せるに至った。そこへ警戒中の巡査も駈《か》けつけ、直ちに狼を銃殺した。この狼はルプス・ジガンティクスと称し、最も兇猛《きょうもう》な種属であると云う。なお宮城動物園主は狼の銃殺を不当とし、小田原署長を相手どった告訴《こくそ》を起すといきまいている。等《とう》、等、等。
五
ある秋の真夜中です。体も心も疲れ切った白は主人の家へ帰って来ました。勿論《もちろん》お嬢さんや坊ちゃんはとうに床《とこ》へはいっています。いや、今は誰一人起きているものもありますまい。ひっそりした裏庭の芝生《しばふ》の上にも、ただ高い棕櫚《しゅろ》の木の梢《こずえ》に白い月が一輪浮んでいるだけです。白は昔の犬小屋の前に、露《つゆ》に濡《ぬ》れた体を休めました。それから寂しい月を相手に、こういう独語《ひとりごと》を始めました。
「お月様! お月様! わたしは黒君を見殺しにしました。わたしの体のまっ黒になったのも、大かたそのせいかと思っています。しかしわたしはお嬢さんや坊ちゃんにお別れ申してから、あらゆる危険と戦
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