ねがい》を容《い》れてくれました。
杜子春は喜んだの、喜ばないのではありません。老人の言葉がまだ終らない内に、彼は大地に額をつけて、何度も鉄冠子に御時宜《おじぎ》をしました。
「いや、そう御礼などは言って貰うまい。いくらおれの弟子にしたところが、立派な仙人になれるかなれないかは、お前次第で決まることだからな。――が、ともかくもまずおれと一しょに、峨眉山の奥へ来て見るが好《い》い。おお、幸《さいわい》、ここに竹杖《たけづえ》が一本落ちている。では早速これへ乗って、一飛びに空を渡るとしよう」
鉄冠子はそこにあった青竹を一本拾い上げると、口の中《うち》に咒文《じゅもん》を唱えながら、杜子春と一しょにその竹へ、馬にでも乗るように跨《またが》りました。すると不思議ではありませんか。竹杖は忽ち竜のように、勢《いきおい》よく大空へ舞い上って、晴れ渡った春の夕空を峨眉山の方角へ飛んで行きました。
杜子春は胆《きも》をつぶしながら、恐る恐る下を見下しました。が、下には唯青い山々が夕明《ゆうあか》りの底に見えるばかりで、あの洛陽の都の西の門は、(とうに霞に紛れたのでしょう)どこを探しても見当りません。その内に鉄冠子は、白い鬢《びん》の毛を風に吹かせて、高らかに歌を唱《うた》い出しました。
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朝《あした》に北海に遊び、暮《くれ》には蒼梧《そうご》。
袖裏《しゅうり》の青蛇《せいだ》、胆気粗《たんきそ》なり。
三たび岳陽に入れども、人|識《し》らず。
朗吟して、飛過《ひか》す洞庭湖《どうていこ》。
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四
二人を乗せた青竹は、間もなく峨眉山へ舞い下《さが》りました。
そこは深い谷に臨んだ、幅の広い一枚岩の上でしたが、よくよく高い所だと見えて、中空《なかぞら》に垂れた北斗の星が、茶碗《ちゃわん》程の大きさに光っていました。元より人跡《じんせき》の絶えた山ですから、あたりはしんと静まり返って、やっと耳にはいるものは、後《うしろ》の絶壁に生《は》えている、曲りくねった一株の松が、こうこうと夜風に鳴る音だけです。
二人がこの岩の上に来ると、鉄冠子は杜子春を絶壁の下に坐らせて、
「おれはこれから天上へ行って、西王母《せいおうぼ》に御眼にかかって来るから、お前はその間ここに坐って、おれの帰るのを待っているが好《い》い。多分おれがいなくなると、いろいろな魔性《ましょう》が現れて、お前をたぶらかそうとするだろうが、たといどんなことが起ろうとも、決して声を出すのではないぞ。もし一言《ひとこと》でも口を利《き》いたら、お前は到底仙人にはなれないものだと覚悟をしろ。好《い》いか。天地が裂けても、黙っているのだぞ」と言いました。
「大丈夫です。決して声なぞは出しません。命がなくなっても、黙っています」
「そうか。それを聞いて、おれも安心した。ではおれは行って来るから」
老人は杜子春に別れを告げると、又あの竹杖に跨って、夜目にも削ったような山々の空へ、一文字に消えてしまいました。
杜子春はたった一人、岩の上に坐ったまま、静《しずか》に星を眺めていました。するとかれこれ半時《はんとき》ばかり経って、深山の夜気が肌寒く薄い着物に透《とお》り出した頃、突然空中に声があって、
「そこにいるのは何者だ」と、叱りつけるではありませんか。
しかし杜子春は仙人の教《おしえ》通り、何とも返事をしずにいました。
ところが又暫くすると、やはり同じ声が響いて、
「返事をしないと立ちどころに、命はないものと覚悟しろ」と、いかめしく嚇《おど》しつけるのです。
杜子春は勿論黙っていました。
と、どこから登って来たか、爛々《らんらん》と眼を光らせた虎《とら》が一匹、忽然《こつぜん》と岩の上に躍《のぼ》り上って、杜子春の姿を睨《にら》みながら、一声高く哮《たけ》りました。のみならずそれと同時に、頭の上の松の枝が、烈《はげ》しくざわざわ揺れたと思うと、後《うしろ》の絶壁の頂からは、四斗樽《しとだる》程の白蛇《はくだ》が一匹、炎のような舌を吐いて、見る見る近くへ下りて来るのです。
杜子春はしかし平然と、眉毛《まゆげ》も動かさずに坐っていました。
虎と蛇とは、一つ餌食《えじき》を狙《ねら》って、互に隙《すき》でも窺《うかが》うのか、暫くは睨合いの体《てい》でしたが、やがてどちらが先ともなく、一時に杜子春に飛びかかりました。が虎の牙《きば》に噛《か》まれるか、蛇の舌に呑《の》まれるか、杜子春の命は瞬《またた》く内に、なくなってしまうと思った時、虎と蛇とは霧の如く、夜風と共に消え失《う》せて、後には唯、絶壁の松が、さっきの通りこうこうと枝を鳴らしているばかりなのです。杜子春はほっと一息しながら、今度はどんなことが起るかと、心待ちに待っ
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