ていました。
すると一陣の風が吹き起って、墨のような黒雲が一面にあたりをとざすや否や、うす紫の稲妻がやにわに闇を二つに裂いて、凄《すさま》じく雷《らい》が鳴り出しました。いや、雷ばかりではありません。それと一しょに瀑《たき》のような雨も、いきなりどうどうと降り出したのです。杜子春はこの天変の中《なか》に、恐れ気《げ》もなく坐っていました。風の音、雨のしぶき、それから絶え間ない稲妻の光、――暫くはさすがの峨眉山も、覆《くつがえ》るかと思う位でしたが、その内に耳をもつんざく程、大きな雷鳴が轟《とどろ》いたと思うと、空に渦《うず》巻いた黒雲の中から、まっ赤な一本の火柱が、杜子春の頭へ落ちかかりました。
杜子春は思わず耳を抑えて、一枚岩の上へひれ伏しました。が、すぐに眼を開いて見ると、空は以前の通り晴れ渡って、向うに聳《そび》えた山々の上にも、茶碗ほどの北斗の星が、やはりきらきら輝いています。して見れば今の大あらしも、あの虎や白蛇と同じように、鉄冠子の留守をつけこんだ、魔性の悪戯《いたずら》に違いありません。杜子春は漸《ようや》く安心して、額の冷汗《ひやあせ》を拭《ぬぐ》いながら、又岩の上に坐り直しました。
が、そのため息がまだ消えない内に、今度は彼の坐っている前へ、金の鎧《よろい》を着下《きくだ》した、身の丈《たけ》三丈もあろうという、厳《おごそ》かな神将が現れました。神将は手に三叉《みつまた》の戟《ほこ》を持っていましたが、いきなりその戟の切先《きっさき》を杜子春の胸《むな》もとへ向けながら、眼を嗔《いか》らせて叱りつけるのを聞けば、
「こら、その方は一体何物だ。この峨眉山という山は、天地|開闢《かいびゃく》の昔から、おれが住居《すまい》をしている所だぞ。それも憚《はばか》らずたった一人、ここへ足を踏み入れるとは、よもや唯の人間ではあるまい。さあ命が惜しかったら、一刻も早く返答しろ」と言うのです。
しかし杜子春は老人の言葉通り、黙然《もくねん》と口を噤《つぐ》んでいました。
「返事をしないか。――しないな。好し。しなければ、しないで勝手にしろ。その代りおれの眷属《けんぞく》たちが、その方をずたずたに斬《き》ってしまうぞ」
神将は戟を高く挙げて、向うの山の空を招きました。その途端に闇がさっと裂けると、驚いたことには無数の神兵が、雲の如く空に充満《みちみ》ちて、それが皆|槍《やり》や刀をきらめかせながら、今にもここへ一なだれに攻め寄せようとしているのです。
この景色を見た杜子春は、思わずあっと叫びそうにしましたが、すぐに又鉄冠子の言葉を思い出して、一生懸命に黙っていました。神将は彼が恐れないのを見ると、怒《おこ》ったの怒らないのではありません。
「この剛情者め。どうしても返事をしなければ、約束通り命はとってやるぞ」
神将はこう喚《わめ》くが早いか、三叉の戟を閃《ひらめ》かせて、一突きに杜子春を突き殺しました。そうして峨眉山もどよむ程、からからと高く笑いながら、どこともなく消えてしまいました。勿論この時はもう無数の神兵も、吹き渡る夜風の音と一しょに、夢のように消え失せた後だったのです。
北斗の星は又寒そうに、一枚岩の上を照らし始めました。絶壁の松も前に変らず、こうこうと枝を鳴らせています。が、杜子春はとうに息が絶えて、仰向《あおむ》けにそこへ倒れていました。
五
杜子春の体は岩の上へ、仰向けに倒れていましたが、杜子春の魂は、静に体から抜け出して、地獄の底へ下りて行きました。
この世と地獄との間には、闇穴道《あんけつどう》という道があって、そこは年中暗い空に、氷のような冷たい風がぴゅうぴゅう吹き荒《すさ》んでいるのです。杜子春はその風に吹かれながら、暫くは唯|木《こ》の葉のように、空を漂って行きましたが、やがて森羅殿《しんらでん》という額《がく》の懸《かか》った立派な御殿の前へ出ました。
御殿の前にいた大勢の鬼は、杜子春の姿を見るや否や、すぐにそのまわりを取り捲《ま》いて、階《きざはし》の前へ引き据えました。階の上には一人の王様が、まっ黒な袍《きもの》に金の冠をかぶって、いかめしくあたりを睨んでいます。これは兼ねて噂《うわさ》に聞いた、閻魔《えんま》大王に違いありません。杜子春はどうなることかと思いながら、恐る恐るそこへ跪《ひざまず》いていました。
「こら、その方は何の為《ため》に、峨眉山の上へ坐っていた?」
閻魔大王の声は雷《らい》のように、階の上から響きました。杜子春は早速その問に答えようとしましたが、ふと又思い出したのは、「決して口を利《き》くな」という鉄冠子の戒《いまし》めの言葉です。そこで唯|頭《かしら》を垂れたまま、唖《おし》のように黙っていました。すると閻魔大王は、持っていた鉄の笏《しゃ
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