耳を抑へて、一枚岩の上へひれ伏しました。が、すぐに眼を開いて見ると、空は以前の通り晴れ渡つて、向うに聳《そび》えた山山の上にも、茶碗程の北斗の星が、やはりきらきら輝いてゐます。して見れば今の大あらしも、あの虎や白蛇と同じやうに、鉄冠子《てつくわんし》の留守をつけこんだ、魔性の悪戯《いたづら》に違ひありません。杜子春は漸《やうや》く安心して、額の冷汗を拭ひながら、又岩の上に坐り直しました。
 が、そのため息がまだ消えない内に、今度は彼の坐つてゐる前へ、金の鎧《よろひ》を着下《きくだ》した、身の丈三丈もあらうといふ、厳かな神将が現れました。神将は手に三叉《みつまた》の戟《ほこ》を持つてゐましたが、いきなりその戟の切先を杜子春の胸もとへ向けながら、眼を嗔《いか》らせて叱りつけるのを聞けば、
「こら、その方は一体何物だ。この峨眉山といふ山は、天地|開闢《かいびやく》の昔から、おれが住居《すまひ》をしてゐる所だぞ。それも憚《はばか》らずたつた一人、ここへ足を踏み入れるとは、よもや唯の人間ではあるまい。さあ命が惜しかつたら、一刻も早く返答しろ。」と言ふのです。
 しかし杜子春は老人の言葉通り、黙然《もくねん》と口を噤《つぐ》んでゐました。
「返事をしないか。――しないな。好し。しなければ、しないで勝手にしろ。その代りおれの眷属《けんぞく》たちが、その方をずたずたに斬つてしまふぞ。」
 神将は戟《ほこ》を高く挙げて、向うの山の空を招きました。その途端に闇がさつと裂けると、驚いたことには無数の神兵が、雲の如く空に充満《みちみ》ちて、それが皆槍や刀をきらめかせながら、今にもここへ一なだれに攻め寄せようとしてゐるのです。
 この景色を見た杜子春は、思はずあつと叫びさうにしましたが、すぐに又鉄冠子の言葉を思ひ出して、一生懸命に黙つてゐました。神将は彼が恐れないのを見ると、怒つたの怒らないのではありません。
「この剛情者め。どうしても返事をしなければ、約束通り命はとつてやるぞ。」
 神将はかう喚《わめ》くが早いか、三叉《みつまた》の戟《ほこ》を閃《ひらめ》かせて、一突きに杜子春を突き殺しました。さうして峨眉山もどよむ程、からからと高く笑ひながら、どこともなく消えてしまひました。勿論この時はもう無数の神兵も、吹き渡る夜風の音と一しよに、夢のやうに消え失せた後だつたのです。
 北斗の星は又寒さうに、一枚岩の上を照らし始めました。絶壁の松も前に変らず、こうこうと枝を鳴らせてゐます。が、杜子春はとうに息が絶えて、仰向《あふむ》けにそこへ倒れてゐました。

       五

 杜子春の体は岩の上へ、仰向けに倒れてゐましたが、杜子春の魂は、静に体から抜け出して、地獄の底へ下りて行きました。
 この世と地獄との間には、闇穴道《あんけつだう》といふ道があつて、そこは年中暗い空に、氷のやうな冷たい風がぴゆうぴゆう吹き荒《すさ》んでゐるのです。杜子春はその風に吹かれながら、暫くは唯《ただ》木の葉のやうに、空を漂つて行きましたが、やがて森羅殿《しんらでん》といふ額の懸つた立派な御殿の前へ出ました。
 御殿の前にゐた大勢の鬼は、杜子春の姿を見るや否や、すぐにそのまはりを取り捲いて、階《きざはし》の前へ引き据ゑました。階の上には一人の王様が、まつ黒な袍《きもの》に金の冠《かんむり》をかぶつて、いかめしくあたりを睨んでゐます。これは兼ねて噂《うはさ》に聞いた、閻魔《えんま》大王に違ひありません。杜子春はどうなることかと思ひながら、恐る恐るそこへ跪《ひざまづ》いてゐました。
「こら、その方は何の為に、峨眉山の上へ坐つてゐた?」
 閻魔大王の声は雷のやうに、階の上から響きました。杜子春は早速その問に答へようとしましたが、ふと又思ひ出したのは、「決して口を利くな。」といふ鉄冠子の戒めの言葉です。そこで唯頭を垂れた儘、唖《おし》のやうに黙つてゐました。すると閻魔大王は、持つてゐた鉄の笏《しやく》を挙げて、顔中の鬚《ひげ》を逆立てながら、
「その方はここをどこだと思ふ? 速《すみやか》に返答をすれば好し、さもなければ時を移さず、地獄の呵責《かしやく》に遇《あ》はせてくれるぞ。」と、威丈高《ゐたけだか》に罵《ののし》りました。
 が、杜子春は相変らず唇《くちびる》一つ動かしません。それを見た閻魔大王は、すぐに鬼どもの方を向いて、荒々しく何か言ひつけると、鬼どもは一度に畏《かしこま》つて、忽ち杜子春を引き立てながら、森羅殿の空へ舞ひ上りました。
 地獄には誰でも知つてゐる通り、剣《つるぎ》の山や血の池の外にも、焦熱《せうねつ》地獄といふ焔の谷や極寒《ごくかん》地獄といふ氷の海が、真暗な空の下に並んでゐます。鬼どもはさういふ地獄の中へ、代る代る杜子春を抛《はふ》りこみました。ですから杜子春は
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