とは幸ひにもまだ一度もなし。
鹿島龍蔵《かしまりゆうざう》 これも親子ほど年の違ふ実業家なり。少年西洋に在りし為、三味線《しやみせん》や御神燈《ごしんとう》を見ても遊蕩《いうたう》を想はず、その代りに艶《なまめ》きたるランプ・シエエドなどを見れば、忽ち遊蕩を想《おも》ふよし。書、篆刻《てんこく》、謡《うたひ》、舞《まひ》、長唄、常盤津《ときはず》、歌沢《うたざは》、狂言、テニス、氷辷《こほりすべ》り等《とう》通ぜざるものなしと言ふに至つては、誰か唖然《あぜん》として驚かざらんや。然れども鹿島さんの多芸なるは僕の尊敬するところにあらず。僕の尊敬する所は鹿島さんの「人となり」なり。鹿島さんの如く、熟して敗《やぶ》れざる底《てい》の東京人は今日《こんにち》既に見るべからず。明日《みやうにち》は更《さら》に稀《まれ》なるべし。僕は東京と田舎《ゐなか》とを兼ねたる文明的混血児なれども、東京人たる鹿島さんには聖賢相親しむの情――或は狐狸《こり》相親しむの情を懐抱《くはいはう》せざる能《あた》はざるものなり。鹿島さんの再び西洋に遊ばんとするに当り、活字を以て一言《いちげん》を餞《はなむけ》す。あんまりランプ・シエエドなどに感心して来てはいけません。
室生犀星《むろふさいせい》 これは何度も書いたことあれば、今更言を加へずともよし。只僕を僕とも思はずして、「ほら、芥川龍之介、もう好い加減に猿股《さるまた》をはきかへなさい」とか、「そのステッキはよしなさい」とか、入らざる世話を焼く男は余り外《ほか》にはあらざらん乎《か》。但し僕をその小言《こごと》の前に降参するものと思ふべからず。僕には室生《むろふ》の苦手《にがて》なる議論を吹つかける妙計《めうけい》あり。
久保田万太郎《くぼたまんたろう》 これも多言《たげん》を加ふるを待たず。やはり僕が議論を吹つかければ、忽ち敬して遠ざくる所は室生と同工異曲なり。なほ次手に吹聴《ふいちやう》すれば、久保田君は酒客《しゆかく》なれども、(室生を呼ぶ時は呼び捨てにすれども、久保田君は未《いま》だに呼び捨てに出来ず。)海鼠腸《このわた》を食はず。からすみを食はず、況《いはん》や烏賊《いか》の黒作《くろづく》り(これは僕も四五日|前《ぜん》に始めて食ひしものなれども)を食はず。酒客たらざる僕よりも味覚の進歩せざるは気の毒なり。
北原大輔《きたはら
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