オかしあの主人公は、我々の周囲を見廻しても、滅多《めつた》にゐなさうな人間である。「それから」が発表された当時、世間にはやつてゐた自然派の小説には、我々の周囲にも大勢《おほぜい》ゐさうな、その意味では人生に忠実な性格描写《せいかくべうしや》が多かつた筈である。しかし自然派の小説中、「それから」のやうに主人公の模倣者《もはうしや》さへ生んだものは見えぬ。これは独り「それから」には限らず、ウエルテルでもルネでも同じ事である。彼等はいづれも一代を動揺させた性格である。が、如何《いか》に西洋でも、彼等のやうな人間は、滅多《めつた》にゐぬのに相違ない。滅多にゐぬやうな人間が、反《かへ》つて模倣者さへ生んだのは、滅多《めつた》にゐぬからではあるまいか。無論滅多にゐぬと云ふ事は、何処《どこ》にもゐぬと云ふ意味ではない。何処にもゐるとは云へぬかも知れぬ、が、何処かにゐさうだ位の心もちを含んだ言葉である。人々はその主人公が、手近《てぢか》に住んで居らぬ所に、※[#「りっしんべん+淌のつくり」、第3水準1−84−54]※[#「りっしんべん+兄」、第3水準1−84−45]《しやうけい》の意味を見出《みいだ》すのであらう。さうして又その主人公が、何処かに住んでゐさうな所に、※[#「りっしんべん+淌のつくり」、第3水準1−84−54]※[#「りっしんべん+兄」、第3水準1−84−45]《しやうけい》の可能性を見出《みいだ》すのであらう。だから小説が人生に、人間の意欲に働きかける為には、この手近に住んでゐない、しかも何処かに住んでゐさうな性格を創造せねばならぬ。これが通俗に云ふ意味では、理想主義的な小説家が負はねばならぬ大任である。カラマゾフを書いたドストエフスキイは、立派《りつぱ》にこの大任を果してゐる。今後の日本では仰《そもそも》誰が、かう云ふ性格を造り出すであろう。(一月十三日)

     嘲魔《てうま》

 一《ひと》かどの英霊を持つた人々の中には、二つの自己が住む事がある。一つは常に活動的な、情熱のある自己である。他の一つは冷酷《れいこく》な、観察的な自己である。この二つの自己を有する人々は、ややもすると創作力の代りに、唯賢明な批評力を獲得《くわくとく》するだけに止《とど》まり易い。M. de la Rochefoucauld はこれである。が、モリエエルはさうではない。彼はこの二
前へ 次へ
全11ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング