し今まで瞑目《めいもく》していた、死人にひとしい僕の母は突然目をあいて何か言った。僕等は皆悲しい中にも小声でくすくす笑い出した。
 僕はその次の晩も僕の母の枕もとに夜明近くまで坐っていた。が、なぜかゆうべのように少しも涙は流れなかった。僕は殆《ほとん》ど泣き声を絶たない僕の姉の手前を恥じ、一生懸命に泣く真似《まね》をしていた。同時に又僕の泣かれない以上、僕の母の死ぬことは必ずないと信じていた。
 僕の母は三日目の晩に殆ど苦しまずに死んで行った。死ぬ前には正気に返ったと見え、僕等の顔を眺めてはとめ度なしにぽろぽろ涙を落した。が、やはりふだんのように何とも口は利かなかった。
 僕は納棺《のうかん》を終った後にも時々泣かずにはいられなかった。すると「王子の叔母さん」と云う或遠縁のお婆さんが一人「ほんとうに御感心でございますね」と言った。しかし僕は妙なことに感心する人だと思っただけだった。
 僕の母の葬式の出た日、僕の姉は位牌《いはい》を持ち、僕はその後ろに香炉を持ち二人とも人力車に乗って行った。僕は時々居睡《いねむ》りをし、はっと思って目を醒《さ》ます拍子に危く香炉を落しそうにする。けれども
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