は来合せていた芸者が一人、じっと僕を見下ろしていた。僕は黙って段梯子を下り、玄関の外のタクシイに乗った。タクシイはすぐに動き出した。が、僕は僕の父よりも水々しい西洋髪に結った彼女の顔を、――殊に彼女の目を考えていた。
僕が病院へ帰って来ると、僕の父は僕を待ち兼ねていた。のみならず二枚折の屏風《びょうぶ》の外に悉く余人を引き下らせ、僕の手を握ったり撫《な》でたりしながら、僕の知らない昔のことを、――僕の母と結婚した当時のことを話し出した。それは僕の母と二人で箪笥《たんす》を買いに出かけたとか、鮨《すし》をとって食ったとか云う、瑣末《さまつ》な話に過ぎなかった。しかし僕はその話のうちにいつか※[#「目+匡」、第3水準1−88−81]《まぶた》が熱くなっていた。僕の父も肉の落ちた頬《ほお》にやはり涙を流していた。
僕の父はその次の朝に余り苦しまずに死んで行った。死ぬ前には頭も狂ったと見え「あんなに旗を立てた軍艦が来た。みんな万歳を唱えろ」などと言った。僕は僕の父の葬式がどんなものだったか覚えていない。唯《ただ》僕の父の死骸《しがい》を病院から実家へ運ぶ時、大きい春の月が一つ、僕の父の柩車《きゅうしゃ》の上を照らしていたことを覚えている。
四
僕は今年の三月の半ばにまだ懐炉を入れたまま、久しぶりに妻と墓参りをした。久しぶりに、――しかし小さい墓は勿論《もちろん》、墓の上に枝を伸ばした一株の赤松も変らなかった。
「点鬼簿」に加えた三人は皆この谷中《やなか》の墓地の隅に、――しかも同じ石塔の下に彼等の骨を埋《うず》めている。僕はこの墓の下へ静かに僕の母の柩《ひつぎ》が下された時のことを思い出した。これは又「初ちゃん」も同じだったであろう。唯僕の父だけは、――僕は僕の父の骨が白じらと細かに砕けた中に金歯の交っていたのを覚えている。………
僕は墓参りを好んではいない。若《も》し忘れていられるとすれば、僕の両親や姉のことも忘れていたいと思っている。が、特にその日だけは肉体的に弱っていたせいか、春先の午後の日の光の中に黒ずんだ石塔を眺めながら、一体彼等三人の中では誰が幸福だったろうと考えたりした。
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かげろふや塚より外に住むばかり
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僕は実際この時ほど、こう云う丈艸《じょうそう》の心もちが押し迫って来るのを感じたことはなかった。
底本:「昭和文学全集 第1巻」小学館
1987(昭和62)年5月1日初版第1刷発行
親本:岩波書店刊「芥川龍之介全集」
1977(昭和52)年〜1978(昭和53)年
入力:j.utiyama
校正:山本奈津恵
1998年10月5日公開
2004年3月12日修正
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