通っていた。が、土曜から日曜へかけては必ず僕の母の家へ――本所の芥川家へ泊りに行った。「初ちゃん」はこう云う外出の時にはまだ明治二十年代でも今めかしい洋服を着ていたのであろう。僕は小学校へ通っていた頃、「初ちゃん」の着物の端巾《はぎれ》を貰い、ゴム人形に着せたのを覚えている。その又端巾は言い合せたように細かい花や楽器を散らした舶来のキャラコばかりだった。
或春先の日曜の午後、「初ちゃん」は庭を歩きながら、座敷にいる伯母に声をかけた。(僕は勿論この時の姉も洋服を着ていたように想像している。)
「伯母さん、これは何と云う樹?」
「どの樹?」
「この莟《つぼみ》のある樹。」
僕の母の実家の庭には背の低い木瓜《ぼけ》の樹が一株、古井戸へ枝を垂らしていた。髪をお下げにした「初ちゃん」は恐らくは大きい目をしたまま、この枝のとげとげしい木瓜の樹を見つめていたことであろう。
「これはお前と同じ名前の樹。」
伯母の洒落《しゃれ》は生憎《あいにく》通じなかった。
「じゃ莫迦《ばか》の樹と云う樹なのね。」
伯母は「初ちゃん」の話さえ出れば、未だにこの問答を繰り返している。実際又「初ちゃん」の話と云ってはその外に何も残っていない。「初ちゃん」はそれから幾日もたたずに柩《ひつぎ》にはいってしまったのであろう。僕は小さい位牌に彫った「初ちゃん」の戒名は覚えていない。が、「初ちゃん」の命日が四月五日であることだけは妙にはっきりと覚えている。
僕はなぜかこの姉に、――全然僕の見知らない姉に或親しみを感じている。「初ちゃん」は今も存命するとすれば、四十を越していることであろう。四十を越した「初ちゃん」の顔は或は芝の実家の二階に茫然《ぼうぜん》と煙草をふかしていた僕の母の顔に似ているかも知れない。僕は時々幻のように僕の母とも姉ともつかない四十|恰好《かっこう》の女人が一人、どこかから僕の一生を見守っているように感じている。これは珈琲や煙草に疲れた僕の神経の仕業であろうか? それとも又何かの機会に実在の世界へも面かげを見せる超自然の力の仕業であろうか?
三
僕は母の発狂した為に生まれるが早いか養家に来たから、(養家は母かたの伯父の家だった。)僕の父にも冷淡だった。僕の父は牛乳屋であり、小さい成功者の一人らしかった。僕に当時新らしかった果物や飲料を教えたのは悉《ことごと》く僕の父である。バナナ、アイスクリイム、パイナアップル、ラム酒、――まだその外にもあったかも知れない。僕は当時新宿にあった牧場の外の槲《かし》の葉かげにラム酒を飲んだことを覚えている。ラム酒は非常にアルコオル分の少ない、橙黄色《とうこうしょく》を帯びた飲料だった。
僕の父は幼い僕にこう云う珍らしいものを勧め、養家から僕を取り戻そうとした。僕は一夜大森の魚栄でアイスクリイムを勧められながら、露骨に実家へ逃げて来いと口説かれたことを覚えている。僕の父はこう云う時には頗《すこぶ》る巧言令色を弄《ろう》した。が、生憎《あいにく》その勧誘は一度も効を奏さなかった。それは僕が養家の父母を、――殊に伯母を愛していたからだった。
僕の父は又短気だったから、度々誰とでも喧嘩《けんか》をした。僕は中学の三年生の時に僕の父と相撲《すもう》をとり、僕の得意の大外刈りを使って見事に僕の父を投げ倒した。僕の父は起き上ったと思うと、「もう一番」と言って僕に向って来た。僕は又造作もなく投げ倒した。僕の父は三度目には「もう一番」と言いながら、血相を変えて飛びかかって来た。この相撲を見ていた僕の叔母――僕の母の妹であり、僕の父の後妻だった叔母は二三度僕に目くばせをした。僕は僕の父と揉《も》み合《あ》った後、わざと仰向《あおむ》けに倒れてしまった。が、もしあの時に負けなかったとすれば、僕の父は必ず僕にも掴《つか》みかからずにはいなかったであろう。
僕は二十八になった時、――まだ教師をしていた時に「チチニウイン」の電報を受けとり、倉皇《そうこう》と鎌倉から東京へ向った。僕の父はインフルエンザの為に東京病院にはいっていた。僕は彼是《かれこれ》三日ばかり、養家の伯母や実家の叔母と病室の隅に寝泊りしていた。そのうちにそろそろ退屈し出した。そこへ僕の懇意にしていた或|愛蘭土《アイルランド》の新聞記者が一人、築地の或待合へ飯を食いに来ないかと云う電話をかけた。僕はその新聞記者が近く渡米するのを口実にし、垂死《すいし》の僕の父を残したまま、築地の或待合へ出かけて行った。
僕等は四五人の芸者と一しょに愉快に日本風の食事をした。食事は確か十時頃に終った。僕はその新聞記者を残したまま、狭い段梯子《だんばしご》を下って行った。すると誰か後ろから「ああさん」と僕に声をかけた。僕は中段に足をとめながら、段梯子の上をふり返った。そこに
前へ
次へ
全3ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング