二人の友
芥川龍之介
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)福間《ふくま》先生
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)又|丁度《ちやうど》
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「亡+おおざと」、第3水準1−92−61]
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僕は一高へはひつた時、福間《ふくま》先生に独逸《ドイツ》語を学んだ。福間先生は鴎外《おうぐわい》先生の「二人《ふたり》の友」の中のF君である。「二人の友」は当時はまだ活字になつてはいなかつたであらう。少くとも僕などのそんなことを全然知らなかつたのは確かである。
福間先生は常人よりも寧《むし》ろ背《せい》は低かつたであらう。何《なん》でも金縁《きんぶち》の近眼鏡《きんがんきやう》をかけ、可成《かなり》長い口髭《くちひげ》を蓄《たくは》へてゐられたやうに覚えてゐる。
僕等は皆福間先生に或親しみを抱《いだ》いてゐた。それは先生も青年のやうに諧謔《かいぎやく》を好んでゐられたからである。先生は一学期の或時間に久米正雄《くめまさを》にかう言はれた。
「君にはこの言葉の意味がクメとれないんですか?」
久米も亦《また》忽ち洒落《しやれ》を以て酬《むく》いた。
「ええ、ちよつとわかりません。どう言ふ意味がフクマつてゐるか」
福間《ふくま》先生は二学期からいきなり僕等にゲラアデ・アウスと云ふギズキイの警句集を教へられた。僕等の新単語に悩まされたことは言ふを待たないのに違ひない。僕は未《いま》だにその本にあつた、シユタアツ・ヘモロイダリウスと云ふ、不可思議な言葉を記憶してゐる。この言葉は恐らくは一生の間《あひだ》、薄暗い僕の脳味噌《のうみそ》のどこかに木の子のやうに生えてゐるであらう。僕はそんなことを考へると、いつも何か可笑《をか》しい中に儚《はかな》い心もちも感じるのである。
福間先生の死なれたのは僕等の二年生になつた時か、それとも三年生になつた時か、生憎《あいにく》はつきりと覚えてゐない。が、その一週間か二週間か前《まへ》に今の恒藤恭《つねとうきよう》――当時の井川《ゐがは》恭と一しよにお見舞に行つたことは覚えてゐる。先生はベツドに仰臥《ぎやうぐわ》されたまま、たつた一言《ひとこと》「大分《だいぶ》好《い》い」と言はれた。しかし実際は「大分好い」よりも寧《むし》ろ大分悪かつたのであらう。現に先生の奥さんなどは愁《うれ》はしい顔をしてゐられたものである。
或曇つた冬の日の午後、僕等は皆福間先生の柩《ひつぎ》を今戸《いまど》のお寺へ送つて行つた、お葬式の導師《だうし》になつたのはやはり鴎外《おうぐわい》先生の「二人《ふたり》の友」の中の「安国寺《あんこくじ》さん」である。「安国寺さん」は式をすませた後《のち》、本堂の前に並んだ僕等に寂滅為楽《じやくめつゐらく》の法を説かれた。「北※[#「亡+おおざと」、第3水準1−92−61]山頭《ほくばうさんとう》一片《いつぺん》の煙となり、」――僕は度たび「安国寺さん」のそんなことを言はれたのを覚えてゐる。同時に又|丁度《ちやうど》その最中《さいちう》に糠雨《ぬかあめ》の降り出したのも覚えてゐる。
僕はこの短い文章に「二人の友」と云ふ題をつけた。それは勿論鴎外先生の「二人の友」を借用したのである。けれども今読み返して見ると、僕も亦《また》偶然この文章の中に二人の友だちの名を挙げてゐた。福間先生にからかはれたのは必《かならず》しも久米《くめ》に限つたことではない。先生はむづかしい顔をされながら、井川《ゐがは》にもやはりかう言はれた。
「そんな言葉がわからなくてはイカハ。」
[#地から1字上げ](大正十五年一月)
底本:「筑摩全集類聚 芥川龍之介全集第四巻」筑摩書房
1971(昭和46)年6月5日初版第1刷発行
1979(昭和54)年4月10日初版第11刷発行
入力:土屋隆
校正:松永正敏
2007年6月26日作成
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終わり
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