、いつまでも啜《すす》り上げて泣いて居ります。
そこで私は、前に掲げた種々の実例を挙げて、如何にドッペルゲンゲルの存在が可能かと云う事を、諄々《じゅんじゅん》として妻に説いて聞かせました。閣下、妻のようにヒステリカルな素質のある女には、殊にこう云う奇怪な現象が起り易いのでございます。その例もやはり、記録に乏しくはございません。例えば著名なソムナンビュウルの Auguste Muller などは、屡々《しばしば》その二重人格を示したと云う事です。但しそう云う場合には、その夢遊病患者《ソムナンビュウル》の意志によって、ドッペルゲンゲルが現れるのでございますから、その意志が少しもない妻の場合には、当てはまらないと云う非難もございましょう。また一歩を譲って、それで妻の二重人格が説明出来るにしても、私のそれは出来ないと云う疑問が起るかも知れません。しかしこれ等は、決して解釈に苦むほど困難な問題ではございません。何故《なにゆえ》かと申しますと、自分以外の人間の二重人格を現す能力も、時には持っているものがある事は、やはり疑い難い事実でございます。フランツ・フォン・バアデルが Dr. Werner に与えました手紙によりますと、エッカルツハウズンは、死ぬ少し前に、自分は他の人間の二重人格を現す能力を持っていると、公言したそうでございます。して見ますれば、第二の疑問は、第一の疑問と同じく、妻がそれを意志したかどうかと云う事になってしまう訳でございましょう。所で、意志の有無《うむ》と申す事は、存外|不確《ふたしか》なものでございますまいか。成程、妻はドッペルゲンゲルを現そうとは、意志しなかったのに相違ございません。しかし、私の事は始終念頭にあったでございましょう。あるいは私とどこかへ一しょに行く事を、望んで居ったかも知れません。これが妻のような素質を持っているものに、ドッペルゲンゲルの出現を意志したと、同じような結果を齎《もたら》すと云う事は、考えられない事でございましょうか。少くとも私はそうありそうな事だと存じます。まして、私の妻のような実例も、二三|外《ほか》に散見しているではございませんか。
私はこう云うような事を申して、妻を慰めました。妻もやっと得心が行ったのでございましょう。それからは、「ただあなたがお気の毒ね」と申して、じっと私の顔を見つめたきり、涙を乾かしてしまいました。
閣下、私の二重人格が私に現れた、今日《こんにち》までの経過は、大体右のようなものでございます。私は、それを、妻と私との間の秘密として、今日まで誰にも洩《も》らしませんでした。しかし今はもう、その時ではございません。世間は公然、私を嘲《あざけ》り始めました。そうしてまた、私の妻を憎み始めました。現にこの頃では、妻の不品行を諷《ふう》した俚謡《りよう》をうたって、私の宅の前を通るものさえございます。私として、どうして、それを黙視する事が出来ましょう。
しかし、私が閣下にこう云う事を御訴え致すのは、単に私たち夫妻に無理由な侮辱が加えられるからばかりではございません。そう云う侮辱を耐え忍ぶ結果、妻のヒステリイが、益《ますます》昂進《こうしん》する傾があるからでございます。ヒステリイが益昂進すれば、ドッペルゲンゲルの出現もあるいはより頻繁になるかも知れません。そうすれば、妻の貞操に対する世間の疑は、更に甚しくなる事でございましょう。私はこのディレムマをどうして脱したらいいか、わかりません。
閣下、こう云う事情の下《もと》にある私にとっては、閣下の御保護に依頼するのが、最後の、そうしてまた唯一《ゆいいつ》の活路でございます。どうか私の申上げた事を御《お》信じ下さい。そうして、残酷な世間の迫害に苦しんでいる、私たち夫妻に御同情下さい。私の同僚の一人は故《ことさら》に大きな声を出して、新聞に出ている姦通《かんつう》事件を、私の前で喋々《ちょうちょう》して聞かせました。私の先輩の一人は、私に手紙をよこして、妻の不品行を諷すると同時に、それとなく離婚を勧めてくれました。それからまた、私の教えている学生は、私の講義を真面目に聴かなくなったばかりでなく、私の教室の黒板に、私と妻とのカリカテュアを描《えが》いて、その下に「めでたしめでたし」と書いて置きました。しかし、それらは皆、多少なりとも私と交渉のある人々でございますが、この頃では、赤の他人の癖に、思いもよらない侮辱を加えるものも、決して少くはございません。ある者は、無名のはがきをよこして、妻を禽獣《きんじゅう》に比しました。ある者は、宅の黒塀へ学生以上の手腕を揮《ふる》って、如何《いかが》わしい画と文句とを書きました。そうして更に大胆なるある者は、私の庭内へ忍びこんで、妻と私とが夕飯《ゆうめし》を認《したた》めている所を、窺《うかが》いに参りました。閣下、これが人間らしい行《おこない》でございましょうか。
私は閣下に、これだけの事を申上げたいために、この手紙を書きました。私たち夫妻を凌辱《りょうじょく》し、脅迫する世間に対して、官憲は如何なる処置をとる可《べ》きものか、それは勿論閣下の問題で、私の問題ではございません。が、私は、賢明なる閣下が、必ず私たち夫妻のために、閣下の権能を最も適当に行使せられる事を確信して居ります。どうか昭代《しょうだい》をして、不祥の名を負わせないように、閣下の御《ご》職務を御完《おまっと》うし下さい。
猶、御質問の筋があれば、私はいつでも御署《おんしょ》まで出頭致します。ではこれで、筆を擱《お》く事に致しましょう。
第二の手紙
――警察署長閣下、
閣下の怠慢《たいまん》は、私たち夫妻の上に、最後の不幸を齎《もたら》しました。私の妻は、昨日《さくじつ》突然失踪したぎり、未《いまだ》にどうなったかわかりません。私は危みます。妻は世間の圧迫に耐え兼ねて、自殺したのではございますまいか。
世間はついに、無辜《むこ》の人を殺しました。そうして閣下自身も、その悪《にく》む可き幇助者《ほうじょしゃ》の一人になられたのでございます。
私は今日《こんにち》限り、当区に居住する事を止《や》めるつもりでございます。無為無能なる閣下の警察の下《もと》に、この上どうして安んじている事が出来ましょう。
閣下、私は一昨日、学校も辞職しました。今後の私は、全力を挙げて、超自然的現象の研究に従事するつもりでございます。閣下は恐らく、一般世人と同様、私のこの計画を冷笑なさる事でしょう。しかし一警察署長の身を以て、超自然的なる一切を否定するのは、恥ずべき事ではございますまいか。
閣下はまず、人間が如何に知る所の少ないかを御考えになるべきでしょう。たとえば、閣下の使用せられる刑事の中にさえ、閣下の夢にも御存知にならない伝染病を持っているものが、大勢居ります。殊にそれが、接吻《せっぷん》によって、迅速に伝染すると云う事実は、私以外にほとんど一人も知っているものはございません。この例は、優《ゆう》に閣下の傲慢《ごうまん》なる世界観を破壊するに足りましょう。……
× × ×
それから、先は、ほとんど意味をなさない、哲学じみた事が、長々と書いてある。これは不必要だから、ここには省く事にした。
[#地から1字上げ](大正六年八月十日)
底本:「芥川龍之介全集1」ちくま文庫、筑摩書房
1986(昭和61)年9月24日第1刷発行
1995(平成7)年10月5日第13刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
1971(昭和46)年3月〜1971(昭和46)年11月
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1998年12月6日公開
2004年3月7日修正
青空文庫作成ファイル:
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