ら、始めましょう。彼によりますと、ルウドウィッヒスブルクの Ratzel と云う宝石商は、ある夜|街《まち》の角をまがる拍子に、自分と寸分もちがわない男と、ばったり顔を合せたそうでございます。その男は、後《のち》間もなく、木樵《きこ》りが※[#「木+解」、第3水準1−86−22]の木を伐り倒すのに手を借して、その木の下に圧されて歿《な》くなりました。これによく似ているのは、ロストックで数学の教授をしていた Becker に起った実例でございましょう。ベッカアはある夜五六人の友人と、神学上の議論をして、引用書が必要になったものでございますから、それをとりに独りで自分の書斎へ参りました。すると、彼以外の彼自身が、いつも彼のかける椅子《いす》に腰をかけて、何か本を読んでいるではございませんか。ベッカアは驚きながら、その人物の肩ごしに、読んでいる本を一瞥《いちべつ》致しました。本はバイブルで、その人物の右手の指は「爾《なんじ》の墓を用意せよ。爾は死すべければなり」と云う章を指さして居ります。ベッカアは友人のいる部屋へ帰って来て、一同に自分の死の近づいた事を話しました。そうして、その語《ことば》
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