ん》と思ふから、笑つてばかりゐて相手にしない。しないばかりなら、よかつたんだが、何かの拍子《ひやうし》に「市兵衛《いちべゑ》さんお前|妾《わちき》に惚《ほ》れるなら、命がけで惚れなまし」つて云つたんださうだ。それがあいつの頭へぴんと来たんだらう。おまけに奈良茂《ならも》がその後《あと》から、「かうなると汝《われ》と己《おれ》とは仇《かたき》同志や。今が今でも命のやりとりしてこまそ」つて、笑つたと云ふんだから機会《きつかけ》が悪い。すると、南瓜《かぼちや》は今まではしやいでゐたやつが、急に血相《けつさう》を変へながら坐り直して――それから君、何をやつたと思ふ。あいつがそのとろんこになつた眼を据ゑてハムレツトの声色《こわいろ》を使つたんだ。それも英語で使つたんだと云ふから、驚かあね。
これにや一座も、呆気《あつけ》にとられた。――とられた筈さ。そこにゐた手合《てあひ》にや、遊扇《いうせん》にしろ、蝶兵衛《てふべゑ》にしろ、英語の英の字もわかりやしない。其角《きかく》だつて、「奥《おく》の細道《ほそみち》」の講釈はするだらうが、ハムレツトと来た日にや名を聞いた事もあるまいからね。唯その中でたつた一人、成金《なりきん》のお客にやこれがわかる――そこは亜米利加《アメリカ》で皿洗ひか何かして来ただけに、日本の芝居はつまらないとあつて、オペラコミツクのミス何《なん》とかを贔屓《ひいき》にしてゐると云ふ御人体《ごにんてい》なんだ、がもとより洒落《しやれ》だと心得てゐたから、南瓜が妙な身ぶりをしながら、薄雲太夫をつかまへて、「You go not till I set you up a glass/Where you may see the inmost part of you.」とか何《なん》とか云つても、不相変《あひかはらず》げらげら笑つてゐたさうだがね。――そこまでは、まあよかつたんだ。それがハムレツトの台辞《せりふ》よろしくあつて、だんだんあいつが太夫《たいふ》につめよつて来た時に、間《ま》の悪い時は又間の悪いもので、奈良茂《ならも》の大将が一杯機嫌でどこで聞きかじったか、「What, ho! help! help! help!」とポロニアスの声色《こわいろ》を使つたぢやないか。南瓜のやつはそれを聞くと、急に死人のやうな顔になつて、息がつまりさうな声を出しながら、「How, now! A rat? Dead for a ducat, dead!」と云ふが早いか、いきなり奈良茂《ならも》の側にあつた鮫鞘《さめざや》の脇差《わきざし》を引《ひつ》こぬいて、ずぶりと向うの胸へ突《つつ》こんだんだ。そこでほんもののポロニアスなら「Oh! I am slain.」と云ふ所なんだが、刀は切れるし、急所だし、うんと云つたきりお客は往生《わうじやう》さ。その血の出た事つたらなかつたさうだよ。
「見やあがれ。己《おれ》だつて出たらめばかりは云やしねえ。」――南瓜《かぼちや》はさう云つて、脇差を抛《はふ》り出したさうだがね。返り血もかかつたんだらうが、チヨツキが緋天絨鴦《ひびろうど》なので、それがさほど目に立たない。人を殺したつて、殺さなくつたつて、見た所はやつぱりちんちくりんの、由兵衛奴《よしべゑやつこ》にフロツクを着た、あの南瓜の市兵衛《いちべゑ》が、それでもそこにゐた連中にや、別人のやうに見えたんだらう。――見えたんぢやない。まるで別人になつてしまつたんだ。だから、あいつが御用《ごよう》になつて、茶屋の二階から引立《ひつた》てられる時にや、捕縄《とりなは》のかかつた手の上から、桐《きり》に鳳凰《ほうわう》の繍《ぬひ》のある目のさめるやうな綺麗《きれい》な仕掛《しかけ》を羽織《はお》つてゐたと云ふぢやないか。なに誰の仕掛だ。勿論|薄雲太夫《うすぐもだいふ》のさ。
それ以来|吉原《よしはら》は、今でもあいつの噂《うはさ》で持ちきつてゐるやうだ。兎《と》に角《かく》これで見ても、何《なん》でも冗談《じようだん》だと思ふのは危険だよ。笑つて云つたつて、云はなくつたつて、真面目《まじめ》な事はやつぱり真面目な事にちがひないからね。
[#地から1字上げ](大正七年二月)
底本:「筑摩全集類聚 芥川龍之介全集第四巻」筑摩書房
1971(昭和46)年6月5日初版第1刷発行
1979(昭和54)年4月10日初版第11刷発行
入力:土屋隆
校正:松永正敏
2007年6月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全2ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
芥川 竜之介 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング