げた。その顔に現れた感情は何とも云われない恐怖《きょうふ》だった。伝吉は刀を構えながら、冷やかにこの恐怖を享楽した。
「さあ、その伝三の仇《あだ》を返しに来たのだ。さっさと立ち上って勝負をしろ。」
「何、立ち上れじゃ?」
浄観は見る見る微笑《びしょう》を浮べた。伝吉はこの微笑の中に何か妙に凄《すご》いものを感じた。
「おぬしは己《おれ》が昔のように立ち上れると思うているのか? 己は居《い》ざりじゃ。腰抜けじゃ。」
伝吉は思わず一足《ひとあし》すさった。いつか彼の構えた刀はぶるぶる切先《きっさき》を震《ふる》わしていた。浄観はその容子《ようす》を見やったなり、歯の抜けた口をあからさまにもう一度こうつけ加えた。
「立ち居さえ自由にはならぬ体じゃ。」
「嘘《うそ》をつけ。嘘を……」
伝吉は必死に罵《ののし》りかけた。が、浄観は反対に少しずつ冷静に返り出した。
「何が嘘じゃ? この村のものにも聞いて見るが好《よ》い。己は去年の大患《おおわずら》いから腰ぬけになってしもうたのじゃ。じゃが、――」
浄観はちょいと言葉を切ると、まともに伝吉の目の中を見つめた。
「じゃが己《おれ》は卑怯《ひきょう》なことは云わぬ。いかにもおぬしの云う通り、おぬしの父親《てておや》は己の手にかけた。この腰抜けでも打つと云うなら、立派《りっぱ》に己は打たれてやる。」
伝吉は短い沈黙の間《あいだ》にいろいろの感情の群《むら》がるのを感じた。嫌悪《けんお》、憐憫《れんびん》、侮蔑《ぶべつ》、恐怖、――そう云う感情の高低《こうてい》は徒《いたずら》に彼の太刀先《たちさき》を鈍《にぶ》らせる役に立つばかりだった。伝吉は浄観を睨《にら》んだぎり、打とうか打つまいかと逡巡《しゅんじゅん》していた。
「さあ、打て。」
浄観はほとんど傲然《ごうぜん》と斜《ななめ》に伝吉へ肩を示した。その拍子《ひょうし》にふと伝吉は酒臭い浄観の息を感じた。と同時に昔の怒のむらむらと心に燃え上るのを感じた。それは父を見殺しにした彼自身に対する怒だった。理が非でも仇《あだ》を打たなければ消えることを知らない怒だった。伝吉は武者震《むしゃぶる》いをするが早いか、いきなり浄観を袈裟《けさ》がけに斬った。……
伝吉の見事に仇を打った話はたちまち一郷《いちごう》の評判になった。公儀《こうぎ》も勿論この孝子には格別の咎《とが》めを加え
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