りましたのは、別に取り立てて申し上げるまでもございますまい。が、中に一人、眼だつて事ありげに見えたのは、先年|陸奥《みちのく》の戦ひに餓ゑて人の肉を食つて以来、鹿の生角《いきづの》さへ裂くやうになつたと云ふ強力《がうりき》の侍が、下に腹巻を着こんだ容子で、太刀を鴎尻《かもめじり》に佩《は》き反《そ》らせながら、御縁の下に厳《いかめ》しくつくばつてゐた事でございます。――それが皆、夜風に靡《なび》く灯の光で、或は明るく或は暗く、殆ど夢現《ゆめうつゝ》を分たない気色で、何故かもの凄く見え渡つて居りました。
 その上に又、御庭に引き据ゑた檳榔毛の車が、高い車蓋《やかた》にのつしりと暗《やみ》を抑へて、牛はつけず黒い轅《ながえ》を斜に榻《しぢ》へかけながら、金物《かなもの》の黄金《きん》を星のやうに、ちらちら光らせてゐるのを眺めますと、春とは云ふものゝ何となく肌寒い気が致します。尤もその車の内は、浮線綾の縁《ふち》をとつた青い簾が、重く封じこめて居りますから、※[#「車+非」、第4水準2−89−66]《はこ》には何がはいつてゐるか判りません。さうしてそのまはりには仕丁たちが、手ん手に燃えさかる
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