のいて行くもう一人の足音を、指させるものゝやうに指さして、誰ですと静に眼で尋ねました。
 すると娘は唇を噛みながら、黙つて首をふりました。その容子が如何にも亦、口惜《くや》しさうなのでございます。
 そこで私は身をかゞめながら、娘の耳へ口をつけるやうにして、今度は「誰です」と小声で尋ねました。が、娘はやはり首を振つたばかりで、何とも返事を致しません。いや、それと同時に長い睫毛《まつげ》の先へ、涙を一ぱいためながら、前よりも緊《かた》く唇を噛みしめてゐるのでございます。
 性得《しやうとく》愚《おろか》な私には、分りすぎてゐる程分つてゐる事の外は、生憎《あいにく》何一つ呑みこめません。でございますから、私は言《ことば》のかけやうも知らないで、暫くは唯、娘の胸の動悸に耳を澄ませるやうな心もちで、ぢつとそこに立ちすくんで居りました。尤もこれは一つには、何故かこの上問ひ訊《たゞ》すのが悪いやうな、気咎めが致したからでもございます。――
 それがどの位続いたか、わかりません。が、やがて明け放した遣り戸を閉しながら少しは上気の褪《さ》めたらしい娘の方を見返つて、「もう曹司へ御帰りなさい」と出来る丈
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