云ひながら、その袖を振つて、逐ひ払はうとする所を、耳木兎は蓋《かさ》にかかつて、嘴を鳴らしながら、又一突き――弟子は師匠の前も忘れて、立つては防ぎ、坐つては逐ひ、思はず狭い部屋の中を、あちらこちらと逃げ惑ひました。怪鳥《けてう》も元よりそれにつれて、高く低く翔《かけ》りながら、隙さへあれば驀地《まつしぐら》に眼を目がけて飛んで来ます。その度にばさ/\と、凄じく翼を鳴すのが、落葉の匂だか、滝の水沫《しぶき》とも或は又猿酒の饐《す》ゑたいきれだか何やら怪しげなものゝけはひを誘つて、気味の悪さと云つたらございません。さう云へばその弟子も、うす暗い油火の光さへ朧《おぼろ》げな月明りかと思はれて、師匠の部屋がその儘遠い山奥の、妖気に閉された谷のやうな、心細い気がしたとか申したさうでございます。
 しかし弟子が恐しかつたのは、何も耳木兎に襲はれると云ふ、その事ばかりではございません。いや、それよりも一層身の毛がよだつたのは、師匠の良秀がその騒ぎを冷然と眺めながら、徐に紙を展《の》べ筆を舐《ねぶ》つて、女のやうな少年が異形な鳥に虐《さいな》まれる、物凄い有様を写してゐた事でございます。弟子は一目それ
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