らでございまする。御前もあの絵は御承知でございませう。」
「しかし罪人はどうぢや。獄卒は見た事があるまいな。」大殿様はまるで良秀の申す事が御耳にはいらなかつたやうな御容子で、かう畳みかけて御尋ねになりました。
「私は鉄《くろがね》の鎖《くさり》に縛《いましめ》られたものを見た事がございまする。怪鳥に悩まされるものゝ姿も、具《つぶさ》に写しとりました。されば罪人の呵責《かしやく》に苦しむ様も知らぬと申されませぬ。又獄卒は――」と云つて、良秀は気味の悪い苦笑を洩しながら、「又獄卒は、夢現《ゆめうつゝ》に何度となく、私の眼に映りました。或は牛頭《ごづ》、或は馬頭《めづ》、或は三面六臂《さんめんろつぴ》の鬼の形が、音のせぬ手を拍き、声の出ぬ口を開いて、私を虐《さいな》みに参りますのは、殆ど毎日毎夜のことと申してもよろしうございませう。――私の描かうとして描けぬのは、そのやうなものではございませぬ。」
 それには大殿様も、流石に御驚きになつたでございませう。暫くは唯|苛立《いらだ》たしさうに、良秀の顔を睨めて御出になりましたが、やがて眉を険しく御動かしになりながら、
「では何が描けぬと申すのぢや。」と打捨るやうに仰有いました。

       十五

「私は屏風の唯中に、檳榔毛《びらうげ》の車が一輛空から落ちて来る所を描かうと思つて居りまする。」良秀はかう云つて、始めて鋭く大殿様の御顔を眺めました。あの男は画の事と云ふと、気違ひ同様になるとは聞いて居りましたが、その時の眼のくばりには確にさやうな恐ろしさがあつたやうでございます。
「その車の中には、一人のあでやかな上※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]が、猛火の中に黒髪を乱しながら、悶え苦しんでゐるのでございまする。顔は煙に烟《むせ》びながら、眉を顰《ひそ》めて、空ざまに車蓋《やかた》を仰いで居りませう。手は下簾《したすだれ》を引きちぎつて、降りかゝる火の粉の雨を防がうとしてゐるかも知れませぬ。さうしてそのまはりには、怪しげな鷙鳥が十羽となく、二十羽となく、嘴《くちばし》を鳴らして紛々と飛び繞《めぐ》つてゐるのでございまする。――あゝ、それが、その牛車の中の上※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]が、どうしても私には描けませぬ。」
「さうして――どうぢや。」
 大殿様はどう云ふ訳か
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