したゝか私の体を打ちつけました。かうなつてはもう一刻も躊躇してゐる場合ではございません。私は矢庭に遣り戸を開け放して、月明りのとどかない奥の方へ跳りこまうと致しました。が、その時私の眼を遮《さへぎ》つたものは――いや、それよりももつと私は、同時にその部屋の中から、弾かれたやうに駈け出さうとした女の方に驚かされました。女は出合頭に危く私に衝き当らうとして、その儘外へ転び出ましたが、何故《なぜ》かそこへ膝をついて、息を切らしながら私の顔を、何か恐ろしいものでも見るやうに、戦《をのゝ》き/\見上げてゐるのでございます。
それが良秀の娘だつたことは、何もわざ/\申し上げるまでもございますまい。が、その晩のあの女は、まるで人間が違つたやうに、生々《いき/\》と私の眼に映りました。眼は大きくかゞやいて居ります。頬も赤く燃えて居りましたらう。そこへしどけなく乱れた袴や袿《うちぎ》が、何時もの幼さとは打つて変つた艶《なまめか》しささへも添へてをります。これが実際あの弱々しい、何事にも控へ目勝な良秀の娘でございませうか。――私は遣り戸に身を支へて、この月明りの中にゐる美しい娘の姿を眺めながら、慌しく遠のいて行くもう一人の足音を、指させるものゝやうに指さして、誰ですと静に眼で尋ねました。
すると娘は唇を噛みながら、黙つて首をふりました。その容子が如何にも亦、口惜《くや》しさうなのでございます。
そこで私は身をかゞめながら、娘の耳へ口をつけるやうにして、今度は「誰です」と小声で尋ねました。が、娘はやはり首を振つたばかりで、何とも返事を致しません。いや、それと同時に長い睫毛《まつげ》の先へ、涙を一ぱいためながら、前よりも緊《かた》く唇を噛みしめてゐるのでございます。
性得《しやうとく》愚《おろか》な私には、分りすぎてゐる程分つてゐる事の外は、生憎《あいにく》何一つ呑みこめません。でございますから、私は言《ことば》のかけやうも知らないで、暫くは唯、娘の胸の動悸に耳を澄ませるやうな心もちで、ぢつとそこに立ちすくんで居りました。尤もこれは一つには、何故かこの上問ひ訊《たゞ》すのが悪いやうな、気咎めが致したからでもございます。――
それがどの位続いたか、わかりません。が、やがて明け放した遣り戸を閉しながら少しは上気の褪《さ》めたらしい娘の方を見返つて、「もう曹司へ御帰りなさい」と出来る丈
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