ざいます。勿論弟子はすぐに良秀に手をかけて、力のあらん限り揺り起しましたが、師匠は猶|夢現《ゆめうつゝ》に独《ひと》り語《ごと》を云ひつゞけて、容易に眼のさめる気色はございません。そこで弟子は思ひ切つて、側にあつた筆洗の水を、ざぶりとあの男の顔へ浴びせかけました。
「待つてゐるから、この車へ乗つて来い――この車へ乗つて、奈落へ来い――」と云ふ語がそれと同時に、喉《のど》をしめられるやうな呻き声に変つたと思ひますと、やつと良秀は眼を開いて、針で刺されたよりも慌しく、矢庭にそこへ刎《は》ね起きましたが、まだ夢の中の異類《いるゐ》異形《いぎやう》が、※[#「目+匡」、第3水準1−88−81]《まぶた》の後を去らないのでございませう。暫くは唯恐ろしさうな眼つきをして、やはり大きく口を開きながら、空を見つめて居りましたが、やがて我に返つた容子で、
「もう好いから、あちらへ行つてくれ」と、今度は如何にも素《そ》つ気《け》なく、云ひつけるのでございます。弟子はかう云ふ時に逆ふと、何時でも大小言《おほこごと》を云はれるので、匆々師匠の部屋から出て参りましたが、まだ明い外の日の光を見た時には、まるで自分が悪夢から覚めた様な、ほつとした気が致したとか申して居りました。
 しかしこれなぞはまだよい方なので、その後一月ばかりたつてから、今度は又別の弟子が、わざわざ奥へ呼ばれますと、良秀はやはりうす暗い油火の光りの中で、絵筆を噛んで居りましたが、いきなり弟子の方へ向き直つて、
「御苦労だが、又裸になつて貰はうか。」と申すのでございます。これはその時までにも、どうかすると師匠が云ひつけた事でございますから、弟子は早速衣類をぬぎすてて、赤裸《あかはだか》になりますと、あの男は妙に顔をしかめながら、
「わしは鎖《くさり》で縛られた人間が見たいと思ふのだが、気の毒でも暫くの間、わしのする通りになつてゐてはくれまいか。」と、その癖少しも気の毒らしい容子などは見せずに、冷然とかう申しました。元来この弟子は画筆などを握るよりも、太刀でも持つた方が好ささうな、逞しい若者でございましたが、これには流石に驚いたと見えて、後々までもその時の話を致しますと、「これは師匠が気が違つて、私を殺すのではないかと思ひました」と繰返して申したさうでございます。が、良秀の方では、相手の愚図々々してゐるのが、燥《じれ》つたくなつ
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